アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の六拾八 忠治処刑の詳細の壱拾九

2013年12月08日 | 近世の歴史の裏側

 


囚人之儀上州佐位郡国定村無宿忠治郎と申すものニ御座候。

付添候御出役林部善太左衛門様御手代秋葉堅治郎様、御証文ニて

ヒ遊御越候。十九日三ノ倉村御泊り、夫より大戸泊り、明廿一日

朝四ツ半時(午前十一時)磔ヒ仰付。右者八州御取締様方同断付添。

とあり、十九日に三ノ倉に泊り、二十日に大戸に着いて一泊し、

二十一日午前十一時に処刑されたことがわかる。

出役のうち秋汲平だけが先に大戸に来たのが十七日、其れから

二十一日まで詰め切りで一切の差図をしている。

一方首斬りや忠治を槍で刺し処刑を実行する役目の者は、

浅草の穢多頭弾左衛門、頭車善七の配下で江戸から付いて来た。

その事を「矢野弾左衛門手代小林与七、清水四右衛門同十七日より相詰ヽ

下町惣右衛門(註、前記の手記した惣右衛門のこと)方二居申候。

車善七方者才蔵方二居申候。江戸より付添人又は中山道よりも付添人。

原町立石辺之共都合百人余大戸村へ相詰候」と、

惣右衛門の手記をさらに詳しく裏付ける記述がある。

又、罪人処刑に視された人々が多数勤員された事も解る。

 

                     続く