処刑前夜の状況は、恐らく下記の様と、私は考えている。
生れた、国定村とは異なり、嘉永参年十二月二十日は、
現在の新暦11月17日である。
現在より山中で、日陰で且平均気温も、四,五度低い思われ
且宿周辺には、警固、野次馬が騒ぎ異常な状態の夜だったし、
忠治は【中風】ちゅうふう、中気【チュウキ】
脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随の状態である理解する、
なを、群馬県伊勢崎市地域では別名、昭和時代には「ヨタヨタ」と、
表現していた。
輙、忠治は、この時点では、以前の記載の通りに、処刑当時は、
現在の表現を借りれば、要介護二、三前後の状態であり己の意思を、
伝える事は不可能に近かったと推測している。
其れは、木崎宿での処遇及び、移送で明らかであり、其状態は
半身麻痺で且、有る事は明らかであり、其れを詳細に記述する
古文書は無いが、其れは脳卒中において分かりやすい症状は
顔(笑うと口や顔の片方が歪む、涎を垂らす) 腕(手のひらを
上にして両手を前方にあげる間に片方の腕が下がる)
言葉(上手く喋れない、言葉が出でない)などであり、
公文書及び古文書には、一切記載されていないので、
多くは当時の、お上の筋書き通りの、判決、処刑に
成ったのであるが、多くは、
仕草や表情で表していたと推測する。
例えば、現在脳出血後遺症で、苦しんでおられる方々及び、
家族の方、医療、介護に従事して居る方はお解りと思います。
続く