アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七拾参 忠治処刑の詳細の弐拾四

2013年12月14日 | 近世の歴史の裏側

 


処刑前夜の状況は、恐らく下記の様と、私は考えている。

 

生れた、国定村とは異なり、嘉永参年十二月二十日は、

現在の新暦1117日である。

現在より山中で、日陰で且平均気温も、四,五度低い思われ

且宿周辺には、警固、野次馬が騒ぎ異常な状態の夜だったし、

忠治は【中風】ちゅうふう、中気【チュウキ】

脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随の状態である理解する、

なを、群馬県伊勢崎市地域では別名、昭和時代には「ヨタヨタ」と、

表現していた。

輙、忠治は、この時点では、以前の記載の通りに、処刑当時は、

現在の表現を借りれば、要介護二、三前後の状態であり己の意思を、

伝える事は不可能に近かったと推測している。

其れは、木崎宿での処遇及び、移送で明らかであり、其状態は

半身麻痺で且、有る事は明らかであり、其れを詳細に記述する

古文書は無いが、其れは脳卒中において分かりやすい症状は

顔(笑うと口や顔の片方が歪む、涎を垂らす) 腕(手のひらを

上にして両手を前方にあげる間に片方の腕が下がる)

言葉(上手く喋れない、言葉が出でない)などであり、

 

公文書及び古文書には、一切記載されていないので、

多くは当時の、お上の筋書き通りの、判決、処刑に

成ったのであるが、多くは、

仕草や表情で表していたと推測する。

例えば、現在脳出血後遺症で、苦しんでおられる方々及び、

家族の方、医療、介護に従事して居る方はお解りと思います。

 

                    続く