米沢藩第壱拾弐代藩主
上杉斉憲の顕彰碑
「曦山」は、上杉斉憲の号です。
斉憲は、天保壱拾年(壱千八百参拾九)に弐拾歳で第壱弐代米沢藩主となりました。
幕末の動乱期には将軍家茂に従って上洛して、京都警備賜って米沢藩は壱拾八万石となりました。
ところが、戊辰戦争では、会津藩との深い縁などから新政府軍と敵対する側となり官位は停止、
降伏後の処分で隠居と四万石の召上げか命じられました。
明治維新後、旧米沢藩士たちが中心となって、卓越した旧藩主の汚名を雪ぐ活動が行われ、
明治壱拾参年には、従四位に復帰を果たしました。
更に明治弐拾年に正四位、明治弐拾弐年四月に従三位に昇進しました。
斉憲は、従三位昇進間もない5月弐拾日に死去、享年七拾歳でした。
そして明治弐拾四年、旧藩士たちによって、斉憲の遺徳をしのぶ巨碑か米沢城本丸跡に、
建立されたのです。
一流の 学者・書家・石工の名が、 正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた。
有栖川宮熾仁親王の筆です。
裏の斉憲の経歴は勝安房(海舟)、明治の三書家として名高い金井之恭が書し、江戸の名石工、
宮亀年が、刻んでいます。また清国公使の李経方が、斉憲の功績を讃えた銘(四言の韻文)も
添えられるなど、当代きっての名士・名工の名が見られます。
但し、経歴は実質的には旧米沢藩士で昇進運動の中心となった宮島誠一郎が起草したことが知られています。
巨石は横川から市民の協力で運搬石碑は高さ約3050㎝、幅約1630㎝、厚さ98㎝で、
土台の石だけでも高さ約1600㎝と、とても大きなものです。
中でも碑文を刻む棹石は、東李山の横川(大平集落の奥)で見つかった巨石で、
予算書には総予算四千円のうち、棹石運送料が千円計上されています。
この巨石を山奥から運び出すのは難航したようで、南原住民のお手伝い、米沢中学や興譲学校の生徒の応援など、市民の協力を得てようやく運搬されました。(市立米沢図書館蔵・竹俣文書)。
今回の、引用文献、参考文献は、「広報よねざわ」2015年5月1日号
なを、画像及び石碑の読下しは次回以降に致します。