未だ幾ばくならずして京師騒擾九門戒厳公に鎮撫を命ず、公兵をひきい闕におもむき措置宜しきを
得て即平らぐ、賞して絹及び御扇、金万両を賜い左近衛中将に累進す尋いで請暇し江戸に到る。
将軍公を待すること極めて渥く親佩刀を解き之を賜う、日く「方に今諸藩郷に非ざれば依頼に
足るなし」と。明年従四位の上に敍す。時に西南鉅藩漸く異図を懐き会同の期を践まず。
幕府公を樓き援となさんと欲す。公時勢なすべからざるを知りしばしば老を、幕府に請うも
許さず仍って屋代郷三万七千余石の封を益す。
既にして将軍大阪に薨ず天子亦諒間天下の形成愈々急なり。
将軍慶喜閫職を辞し大阪に在り諸藩に概を伝え兵を徴す。
明治元年正月師を帥いて米沢を発す。初め朝廷幕府共に公を召す。
公諸臣と議し先ず大阪に在り将軍に(拝)謁し而るのち上京す。
境を出るに及び上国の変を聞き乃ち還る。
王師東下し伊達慶邦に命じて松平容保を討たしむ。公のため応援す、
公仙台に抵り慶邦とともに鎮撫総督九条道孝と岩沼に(会)見し、
容保のために哀を請うも許さず尋いで公亦王師に抗せしを以て官位を停む。
詔あり公を東京に召す。公身を以て奥羽越諸藩の罪に代わるを請う。
時に朝廷公に退老を命じ四万石を削地す。世子封を嗣ぐ、仍って公に命じ藩務を視さしむ、
禄制を定め学校を興し規面する所あり。
藩廃するに及び、東京に移住す。十四年車駕奥羽に巡(幸)す、
公馳して米沢に赴むき天子を奉迎す。製糸場に臨幸し、公を召して慰労す。
公伝家の武器を行在所に陳列し覧に供す。依って先世伝うる所の守家、国宗の二刀を献ず。
還幸に及び菊章鋼花瓶二銀盃三を賜う。
二十二年特に従三位に敍す。公おもえらく祖宗以来三位に陞るは唯覚上公あるのみ、
今予此の隆寵を荷うは家門の栄えというべし。此の年公寿七十。
つづく