久保田辰三郎の子供たちは ちょうどそんな時代に青年期や少年期を迎えていた。
例えば 長男の始は昭和十五年一月の生まれだから 同三十五年には二〇歳だったこと
になる 彼は学校へは全く行っていない、もの心ついたときから両親らと共に埼玉県
中部地区の村落社会を回遊しながら見よう見真似で主に箕直しの仕事を手伝っていた。
もし箕が農具として使われる時代がまだ続いていたとしたら そのうち彼も父親のような
ちゃんとした職人になっていたことだろう、だがそうなる前に彼らはかつての暮らしを
やめていた。
松島始(辰三郎は無籍だったから母ヒロの姓を名乗っていた)は、一六、七歳頃からは
農家の手伝い 瓦製造工場での労働などで家計を助けるようになっていた その当時
母のヒロと幼い弟 妹たちはおもらいに回って日々の食糧を得ることが少なくなかった。
それは以前から冬のあいだは彼らがしていたことであった。
東松山市や嵐山町あたりの農村には、平成十年代になっても一家のことを覚えている住民が、
いくらでもいたが、彼らはおもらいさんだった、事を話す人も珍しくなかった。
昭和三十八年十一月には そのころ一家が暮らしていた東松山市毛塚地先の
越辺川(おつべ川)の河原の小屋で母ヒロが病死する 既述のように乳がんであつたらしい、
これをきっかけに家族の離散が始まったのだった
ヒロは先夫とのあいだの三人を含め 合わせて10人の子を産んでいた 第一子(男)は
おそらく戦後ほどなく農薬を飲んで自殺している 第二 第三 第五子言ずれも(女)は、
すでに外へ働きに出ていた、勤め先はみな飲食店であった残る六人のうち下の四人は母親の
死後、施設へあずけられる。結局、第四子と第六子の男二人だけが父親と一緒に暮らすことと
なったのである。そうして同四十四年に辰三郎が他界したあとは その二人も別々のところで
働くことが多かった、ところが それから30年ばかりのちには五人が かつての回遊域内の東松山市と
その近辺へ集まっていた、生きているきようだいでは一人を除いて、いつの間にか故郷ともいうべき土地
へ帰っていたのである。必ずしも仲がよかったわけではないが、いつでも連絡を取り合うことは
できた。 ただし、そのうち二人は平成二十三年秋現在すでに故人となっている
つづく