上杉斉憲の顕彰碑の裏面の碑文です。
下の画像は、上部分の拡大です。
下の画像は、中部分の拡大です。
とても、長い漢文と、漢詩ですので、数回に分けて読み下しを致しますが、
現在では、使用されていない文字が有りますので、一部は現在の文字に
変更しておりますので、ご了承下さい。
公の諒は斉憲磯山と号す。上杉氏世々米沢藩主たり。考の諱は斉定従四位下左少将。
妣は畠山氏。文政三年五月十七日米沢城に生れる。後江戸にうつる。年十七首服を加え
従四位下に敍し侍従に任ず。天保十年四月襲封し、弾正大弼(ひつ)と称す。初め封に就き節倹を
崇び奢侈を戒むを申令、士風を振嶋し老窮を賑恤(じゅつ)す。安政三年左近衛少将に任ず。
幕府しばしば政治の優異を褒し、時服鞍鎧等を賜う。是に先だち米艦浦賀に来り海内騒然たり。
公首大砲を鋳、兵馬操練一に泰西の法に倣い弓槍を廃し代えるに砲銃を以てす。
文久三年徳川将平家茂京師に朝す。公をして先発入京せしむ、会 攘夷の詔出され公武の間
互いに得央を持す。公深く之を憂い斡旋甚だ力む。朝廷勅して京師の警護を倚頼す。
一日公に詔し禁宛内に於いて銃隊を繰練するを天子日崒門に御し之を覧ず、公は馬上部を
指揮し陳べて斉しく銃砲を整え雷発す、上大いに嘉奨す、此の時にあたり将に大和に
行幸せんとし、公を召し詔して可否を諮る、公之を諌止す。
つづく
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