アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の七

2013年08月24日 | 近世の歴史の裏側

 

忠治をめぐる女たち


 ここで、忠治の本妻と妾について記しておく必要がある。

本妻はお鶴といい、佐波郡今井村(現伊勢崎市赤堀今井町)の

旧家の桐生という姓の家に生まれた。桐生家と長岡家は、

昔から血縁関係であったので、その縁で結ばれと考えられる。

所謂おとなし型の平凡な女であったらしく、忠治が処刑された

あとは暫く家にもよりつかなかったが、 そのために取調べの時も

お鶴だけは全然召喚されず、処分もされていなかった。

栃木県鳥山の山伏である右京と名乗る者と忠治の死後夫婦となり、

磐城の平で明治九年十一月二十一目に死んだということになっている。

後に、忠治の墓を立てる時には、一緒に名を刻んだが、

利喜松翁の聴き書きには。

 お鶴と云う人は右京の妻となっては居たが頗る実直の人で、

晩年は何でも矢張り修験(山伏)の様な事をして居たらしい。

明治の初年六十才許りの時分、忠治伯父の墓参にわざわざ

やって来ましたが、頭髪か奇麗に剃り毀(こぼ)ち、

 お比丘の姿でした。或ひは剃った髪の毛を伯父の墓地へ

              来て埋めたのかも知れません。

明治元年に死んだと言うことを、聞きましたが、

其後三年ばかりあとに父(友藏、忠治の弟)と共に磐城の平まで

墓参りに行って来ましたと、こんなふうに語っている。

 妾は二人あって、その中の一人お町というのは大分美人で

あったらしい。田部井村(現在の伊勢崎市田部井町)の

尾内一太夫という者の娘であったが、六才の時に母に死別し、

家の暮らしが苦しくなったので同族尾内小弥大の養女となり、

十六才の時に伊与久村(現伊勢崎市境伊与久町)の深町某のもとに

嫁いだが、二年くらいで出て来たので家にいた。

近郷切っての美人だったので忠治もこれを見染めて妾にしたと

いうことである。忠治は、お町には俗の言葉で惚れていたと

いわれている。

いま一人の妾は、お徳という女であった。お徳は前橋市の朝倉の旧家に

生まれたが、家運が傾いたので家を出てしまい、玉村町の女郎屋に

身売りをしていた。そこで五目牛村(現伊勢崎市五目牛町)の

農民千代松に請け出されて後妻となったが、五、六年で夫が死亡して

 遊んでいたので忠治が進んで妾にしたものという。

お町やお鶴とは比較にならない姐御(あねご)肌であった。

気性が短く荒く、とうてい常の女ではなかったようである。

同じ穴のむじなというか、妾であったが、気質のちがい

そのままに互いの仲はわるかったようである。

お町は、忠治の処刑のあと、新田町田中の田中秀之進という者の

妾となっていたが田中が尊王運動を唱えて捕えられてから

 東小保方村の高橋という者と夫婦となったという。

利喜松の話によると、お町とお徳は、互いに親分のために操?をてて、

二度と他人の妻になるまいと約束したが、お町が亭主持ちになったので、

お徳が怒り、お町の家へ怒鳴りこんで散々悪口のすえ、

頭の髪を切りとり忠治の仏前に供えたということである。

お徳の上州女らしい鉄火肌の姐御的存在がよくわかって面白い。

このお徳の五目牛村の家には、地下道の抜げ穴があり

忠治が忍んでいって、あぶなくなるとこの抜け道から

逃げたということである。忠治が、落ちぶれて五目牛の

お徳の家へ入るのを、介右衛門という目明かしがつきとめ、

踏みこんだところすでに忠治は姿がなかった。

お徳は、この介右衛門をつかまえて、

「てめえはむかしは泥棒だんべー、泥棒のくせに親分を捕えるとは

おかしくって話にもなんねー。馬鹿野郎―」

と罵った。それから、忠治の子分に狙われていると思いこみ、

私と同じで、気弱い介右衛門は自殺をしたという。

その時、忠治が抜げたのがこのお徳の家の地下道であった。

 

磐城の平

 

磐城平(いわきたいら)現在の福島県いわき市の中北部で、

夏井川流域に位置する

 

お比丘(おびく)

 

この場合女性の出家者である比丘尼(びくに)、尼僧である。

 

                         つづく



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