サンカモノは坂の者
喜田貞吉は、京都あたりでは一種の浮浪民を、サンカまたはサンカモノと呼んでいる。東山や鴨川堤などに臨時の小屋を構えて住んでいるものは、そのやや土着的性状を具えて来たものと思われるが、それでもやはり戸籍帳外のものとしてしばしば警察官から追い立てを喰って他に浮浪せねばならぬ運命を免れない。その或るものは数年前から警察や役場のお世話になって、今は在来の或る「特殊」に接した地に借屋住まいをなし、別に一つのをなして戸籍にも編入せられ、日雇その他の労働者として立派に一人前の帝国臣民たる資格を具えることになっているが、それでもなお「旧民」からは、「あれはサンカじゃ」と云って、その仲間扱いにはなっていないらしい。
京都あたりではサンカという類のものを、自分の郷国阿波などでは、オゲ或いはオゲヘンドという。尾張・三河あたりではポンとかポンスケ・ポンツクなど云っているそうである。かの四国・九州あたりで勧進・禅門西国など呼ばれる仲間にも、この徒が少くないらしい。現に竹細工などをして漂泊しているものに対しては、その職業によって、箕直し或いは竹細工などと呼ぶ地方もある。柳田君によれば、ノアイとも、川原乞食とも呼ぶことがあるという。またその種類によって、セブリ・ジリョウジ・ブリウチ・アガリなど呼んでいることもあるという(人類学雑誌「イタカ及びサンカ」)。
各地方により種類によって、種々の名前があるにしても、近来はサンカという名称で、広く彼らを総括する様な風潮になっているかの如くみえる。そしてその文字には、普通に「山窩」と書く様になっている。これは大正三年頃の大阪朝日の日曜附録に、鷹野弥三郎氏の「山窩の生活」と題する面白い読物が連載せられたのが、余程影響を与えているものらしい、それ以来地方の新聞などでも、浮浪漂泊もしくは山住まいの凶漢悪徒の記事などの場合には、往々「山窩」の文字を用うることになっている様に見受けられる。しかし彼らが山の穴住まいをなすことは、むしろ稀な場合であって、柳田君も既に言われた如く、勿論この宛字は意義をなさぬ。芦や穴住まいをしているものについての称呼だとしても、それをむつかしく「山窩」など書いて、それが俗称になったとは思われない。
サンカのことの学界において論議せられたのは、自分の見た限りでは柳田君の「イタカ及びサンカ」(人類学雑誌明治四十四年九月、十一月、同四十五年二月)が初めであるらしい。同君は職人尽歌合にあるイタカとこのサンカとを併せ叙して、彼らと売春婦との関係に及び、一種の娼婦をヨタカと云いソウカと云うは、イタカ及びサンカの語と関係があるらしいと説いておられる。そしてそのサンカの語そのものについては、「本義不明なり」というのみにて、その説明を試みておられぬが、その名称の由来はすこぶる古いものと解しておられるらしい。すなわち平安朝末期の散木奇歌集に、
伏見にくゞつしさむががまうで来りけるに、さきくさに合せて歌うたはせんとて、呼びに遣はしたりけるに、もと宿りたりける家にはなしとて、まうで来ざりけれは[#「けれは」はママ]、
うからめは、うかれて宿も定めぬか つくくゝつまはしは廻り来て居り
という連歌を引証して、サンカという語の古く見ゆる例とされているのである。さすがに博学なる柳田君だけあって、うまいものを見付け出されたとひたすら敬服の外はない。しかしながらこれは柳田君も既に言われた如く、「ただ一つの証なれば誤字等も計り難い」という以外に、実は本来「くゞつし(傀儡師)なるサンカ」と読むのではなくて、「くゞつなるシサムという名の者がもうで来りけるに」と読むべきものではなかろうかとの疑いがある。柳田君は右の連歌の詞書の中なる「さきくさ」を「人形芝居の一曲なるか」と解しておられるが、これは曲名ではなくて遊女の名であった。
つづく
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