国定忠治の生れた地方では、
養蚕が盛んで、米は年貢を納めるが、養蚕は無税で田畑は桑を
植え養蚕が盛んになった。
現在の、東毛地方を中心に特に、現在の伊勢崎市境では、
六斎市が開かれ高値で売れた。
下げ糸にならないくず繭も、真綿にして売ったわけである。
しかし良い「さかい下げ」ばかりは得られない。
半分は屑糸になるわけであるが、その屑糸が大きい役目を成る事になる。
この地方にも寛政年間ごろから、織物の技術が段々普及するようになる。
それは太織縞という織物が生産されて江戸に輸出されたが、
これが大変評判がよく、何ほど生産しても間に合わなかった。
大資本力をもつ豪家主人がこの織物渡世に手を出したのは当然で、
村方へ「いざり機(はた)」を貸し与え、織り方を指導してまわっている。
当時はそれを元機屋(もとはたや)と呼んだが、
江戸の需要に生産が間に合わなかったのである。
太織縞は縦に絹糸を、横には先に言った屑糸を用いた。
太織縞の生産は近世中期のはじめ頃からあったが、
大体は地遣いであったが、
寛政年間にいたると江戸で珍重されることになる。
絹物であるから肌ざわりが良い、横糸に太い屑糸を用いたので
丈夫である、そして半分屑糸であるから、値段が安かったわけで、
この三拍子によって、江戸市民に大いに評判されたのであった。
之が後に伊勢崎銘仙に、なる訳で有る。
太織縞の織り賃はよい手間稼ぎだったので、次第に大きく普及する事に
なり、生産は大いに増大したが、養蚕から繭取り、繭から糸引き、
そして太織縞の生産へと、より付加価値の高い製品になった、
そのため村方の経済力は、次第にゆたかさを増すことになる。
しかしこの仕事は何れも女仕事で、どの村の女も夜の目も寝ずに働いた。
信州では殆ど繭売りしてしまうので、女たちは三食昼寝つきであったが、
上州のかかあどんは、とんでもないわけで、寝ずにはたらいたのである。
ところが男たちは、一と月ばかり養蚕仕事をすると、
あとは用が無くなってしまう。
田圃は放り出して草取りもしない。農業では食うことが出来なかったし、
閑をもてあますことになり、だんだん勝負事などに手を出すようになる。
いつの時代でも勝負事は面白いから、手を出すと止まらなくなり、
稼ぐ方より、遊ぶ方が多くなる。小遣いはかかあ様が働いてくれるが、
次第に昂じると自分の稼ぎや、かかあどんから絞めあげる銭では
間に合わなくなる。
こういう手輩が文化から文政年ころに多くなり、小遣い銭に困ると悪事を
働くようになり、除帖無宿者が氾濫するようになるが、
それは大きな女働きがあって農村が経済的に大変豊かだったからである。
女が一生懸命はたらいた為に、無宿者が生まれた事になる。
つづく
「縞の合羽に三度笠」
縞の合羽の高級品は、太織縞を二重にして中にくず繭の真綿を入れて
縦に細かい縫い目を入れたもので、今でいう、サバイバルコートであるので、
防風、防寒に優れていて、野宿するのに最適で、他方、振り回せば防具になったし、
細かい縫い目に真綿が入っているので防刃の効果があったのである。
語呂良いので三度笠と言ったが、実際には渡世人は妻折笠を使用したのであった。
蛇足であるが、普及品の合羽は、木綿生地に木綿の綿を入れたが重く、濡れると
乾燥に時間を要し宿を使用できる堅気が利用したが、無宿人は宿に泊まれなかった。
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