アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の四

2013年08月19日 | 近世の歴史の裏側

 

○百々紋次とは、


 ところで忠治が頻ってきたという百々紋次のことであるが、

寛致から文化年中に村役人の組頭を勤めていた羽鳥紋吾が

いて、この人は文致二年に七十六歳で亡くなった。

この紋吾に二人の子があって、次男を弥求といったが、

この男は文政四年に除帖無宿になっている。

       乍恐以書付本願上候

 一、当村紋吾後家倅弥求儀、身持不行跡二付、親類組合度々異見

   差加圧呉候得共、一図相用不申候、依之向難ノ程難斗本存候二付、

   親類組合相談ノ上、此度親勘当仕度本願上候、何卒以御慈悲右願之

   通被仰付被下置候様、御上江御取成之程、偏ニ申願上候、

   右願之通被仰付被下置候ハヽ難有仕合奉存候

    文政四巳年三月

このような書類があって、弥求は無宿になったようで、

紋吾の次男だったので、

百々紋次と称したのではないかと思われる。

この除帖無宿というのは、むかしは連帯責任があった。

村の五人組帖に名前が登載されているものが、何か犯罪を犯すと、

五人組、親類、村役人まで同罪として処分されたので、

紋次のように身持ち不行跡者は、何をやりだすかわからない。

もし御法度に触れて召捕られるようなことがあると、

四方へ迷惑がかかるわけで、かような不届き者があると、

領主方へ願い出して、五人組帖から名前を消すことになる。

五人組帖にはいろいろな張り札があって、名前の上の張り札に、

何月何日、どこへ引っ越したとか、嫁入りしたとか注記されるが、

紋次の場合は身持ち不行跡につき除帖となる。帳面に張り札されるので、

むかしから悪漢を「札付き」といったが、

俗に言う札付きの悪の語源である。

それは五人組帖の張り札であった。

除帖者になると、普通には村方にいることが出来ないはずで、

その辺の事情が知られないが、村の経蔵寺内に、

「花輪映光居士」という墓があり、

村の人は紋次の墓だという。戒名に「花」宇を用いるのは、

博奕打に限られているので、紋次の実在は証明されるであろう。

紋次の死は文政十三年ごろといわれ、紋次の死後百々一家は

忠治が次いだ。

忠治は百々村に数年いたらしいが、元々この地方は島村伊三郎の地盤であった。

文政年間の頃から、治安が乱れると幕府は、関東御取締御出役を設けた。

八州様と呼ばれ、江戸の役宅を出て、関八州を廻村して

やくざ者の取締りを主とした。

江戸から来るので不案内のため、村役人に道案内を命じたが、

次第に村役人がこれを嫌うことになり、

代ってトガのないやくざ者が勤めるようになる。

 

トガ

 

この場合は人殺しの前科で、語源はお咎め、とが・む【咎む】である。

 

                       つづく



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