日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。
真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に、
所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。
サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、
サンカとの関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、
日本仏教は、修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、
江戸時代まで仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。
竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。
竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。
サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、
そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国を、
覆っていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、
そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、
情報戦を担っていたという。
情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、
本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、
サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。
サンカは明治初期から次第に被差別や都市部のスラム街に溶け込んでいったと考えられる。
つづく
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