○忠治逃亡も終焉を迎える。
この逃遊行のとき、乾分田中村の沢吉は、越後へ逃げたという
情報があって、八州方は越後方面に手配している。
しかしそこには同じ上州生まれの無宿沢吉はいたが、
忠治一党の田中沢吉ではなかったのである。
いずれにしても全国的な大手配があったようである。
この沢吉は忠治お仕置きのあと、また登場することになる。
いずれにしても信州に逃げ延びた忠治は、松本の博奕の親分の
勝太という者の所に隠れたが、転々として、追剥ぎや集団強盗
していたのであろう。何れにしても信州に入ってから、多くの
乾分が召捕られたようであるが、忠治はついに逃げ通していた。
天保十三年秋、三室勘助を殺害してから、八州様の厳重な取締りで、
多くの乾分が召捕られて死罪になり年月が経った。
いつまでも旅の空では落ちつけない訳で、ようやく上州方面の騒ぎも
おさまり、赤城録には「丙午冬、忠治還赤城」とある。
丙午は弘化三年のことである。赤城山に隠れたが、すでに多くの
乾分は召捕られて死罪になってしまい、忠治の身辺に有力なものはなく、
むかしの勢威はなくなっていたと考えられる。
つづく
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