村民歌「剛志の歌」誕生の経緯
当時の講談社及びキングレコード会社の重役であった長谷川卓郎氏に
依頼した剛志小学校々歌について長谷川先生から栗原和平校長に
対して出来上った旨の書状が届けらました内容は次の通りです。
拝啓、
過日は失礼致しました。御依頼の校歌ようやく出来ました。
御気に召すかどうか。御送り致します。歌詞も曲も校歌としてより、
むしろ村歌として村民挙げて歌うよう注文いたしました。民謡的に
通俗的に歌い易く情味たっぷりにと御願いしました。
御了承願います。謝礼は御予算の五十円で何とかしたいと思います。
実際に教授した御所感をお聞かせ下さい。貴兄からも両先生に御礼状を
お出し下さい。住所は次の通りです。
東京市外代々木幡ケ谷七三〇 時雨音羽様
東京有内中野 中野三五〇八 中山晋平様
職員諸君にもよろしく申上げて下さい。
十一月一日 長谷川卓郎 栗原和平様
村民歌としての剛志の歌もその後昭和五年に、校歌としても
県の教育課より許可されて剛志小学校の歌が山来るまで歌いつがれていた。
橋本 清先生の投稿より引用
注釈
なを、時雨 音羽(しぐれ おとわ、明治42年3月19日 - 昭和55年7月25日)は、
剛志村に、作詞に当たり二度訪れている為、実に詩が抒情的描写が表れている。
その後、剛志小学校歌は昭和37年公募により選ばれた。
長谷川卓郎先生の葬儀には、当時キングレコード専属で、当時の人気歌手、
岡晴夫、東海林太郎をはじめ、経済界、政界から多くの弔問の為に来県した。
東武伊勢崎線「剛志駅」から手前の「境町駅」まで沿線に数千人が
人気歌手を見るために集まった、当時葬儀が行われた剛志村大字保泉は
200人を少し超える人口だった。
この長谷川卓郎に関する項は、終わり
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