長谷川卓郎先生
我が母校は、先進的な風土と、村民で優れた、先生と先輩に恵まれました、
中でも第6代校長、長谷川卓郎校長は、数々の偉業を、各方面に発揮、
実践した方ですが余りにも、偉業逸話が多く、私のメモリーもMB単位ですので
少しずつ記載させていただきますので、宜しくお願い致します。
「大正七年四月八日満開の桜の剛志小学校に私は入学しました。
第一校舎の下の東から二番目の教室で、受持は坂本豊一先生でした。
机も腰掛けも二入用のもので、小此木新田の石原正雄君と並んで席に着きました。
眼鏡をかけて髭を生やし背広を着た先生がお話をしましたが、
この先生が校長の長谷川卓郎先生でした。
子供心に怖い先生に見えました。話に内容は忘れましたが、68年も過ぎた今でも
先生の面影が眼に浮かびます。」
群馬県女子師範学校付属小学校首席訓導として活躍されて居りましたのを
当時剛志村長の高木平馬さんが、保泉出身の長谷川先生を母校の校長に
懇望して実現されたとか。
大正三年に剛志小学校長となり、職員を指導し、村当局の信望も
益々高くなり、学校が中心となって動的教育の実績が高まった頃、
私達の在校と重なった事と思います。
指導法が適確で進歩していた事は確かで、当時佐波郡の比較試験
で抜群の成績でした。自学自習がモットーで、読んで理解出来ない
所へ赤い紙片を貼って、辞書で調べてノートする。尚解らない時は、
授業で質問して理解する。最後にはノートに整理して表にする。
此の学習法を身につけて自学自習するのが、剛志の教育だった。
長谷川先生は大正十二年三月退職して、師範同級生の親友野間清治講談社
社長の片腕となるために上京された。
次の宮川静一郎校長先生も群馬の大校長で、剛志の動的教育に自
由に伸ばす創作教育を導入して、創作賞を設けて随時表彰した。その頃クレオン画が盛んになった。従来臨画などを主とした図画や工作が大きく進歩し、クレオン画の写生大会が聞かれた。
高水晶先生が新しい工作に努力ざれ活躍され、学校の工作教室に大きな足跡を
残されたのも、大正から昭和へかけての頃です。
高一は野村良雄先生で、文部省中等教員校定試験に挑戦中でした。
ダルトンプランの実験をうけ穴のも私共のクラスで、各自が自習したのを発表し、
皆で研究討議し、先生の指導でまとめる、という事もやりました。
後境女学校に転任し、私が群師二年の時には師範学校の教育学の先生として着任され、
二度目の指導を受けました。
当時在職の先生方は一騎当千の実力者で、長谷川校長や宮川校長を敬慕して集まったのでしょう。
剛志村教育沿革史 昭和六十一年三月三十一日境町剛志公民館 発行
橋本 清先生の投稿より引用
続く
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