キングレコード株式会社は、1886(明治19)年11月3日の夜、加川力の住宅に16人が
集まり、社会一般における吹奏楽の需要が高まり海軍軍楽隊が出張演奏の要求に応じ
切れない状態だから、民間に良い吹奏楽団を作る必要があるとして、
その具体案を考えた(当日加川宅に集まった人たち:矢上郁(エス・クラリネット)現役、
井上京次郎(B一番クラリネット)出身者、松本軍三郎(同)現役、瀬戸口藤吉(同)現役、
池田辰五郎(同)現役、後藤不二太郎(B二番クラリネット)現役、
古賀某(B三番クラリネット)出身者、沼元釣[もとかね](B一番コルネット)現役、
西郷直袈裟[さいごうなおけさ](同)現役、前田悌次郎(B二番コルネット)現役、
西村倉次郎(Bテノルホルン)現役、加川力[かがわつとむ](エス・ホルン)出身者、
平岡啓二郎(エス二番ホルン)出身者、大竹秡太郎(バス)現役、西村源八(小ドラム)
出身者、芳ヶ原嘉成(大ドラム)出身者)。
16人のうち現役者は、あと2年間は海軍を離れられないので退職者である井上、
加川、西村源八、平岡、芳ヶ原、古賀の6人がつくることとした。
民間吹奏楽の創建秘史/池田辰五郎述 堀内敬三記(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.34-39)引用
◇座談に浮ぶ音楽家の風貌/上田利一(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.40-43)
内容:1919(大正8)年3月、明敏なジャーナリストの創意によって生まれた座談会
形式は、今日隆盛を見ているが、縁の下の力持ち的存在である速記者の努力も
知ってもらいたい。まず、座談会記事が紙上に再現されるまでの過程について
触れておきたい。矢のように猛烈な勢いで飛び込んでくる出席者たちの言葉を
一本の筆でしっかりと受け止め、席上の雰囲気を生かし、発言者の個性も尊重し、
内容の発展を明確に把握することにも心がける。
まとめられた速記原稿は発言者の手に渡され、加筆訂正の手が加えられ、
さらに編集者に渡って素晴らしい勘と技術によって調整され紙上に出ることになる。
速記者にとって好ましい人とは書きいい人のこと(政治家を例に取れば、
永井柳太郎や永田秀次郎)であり、書きにくい人は好ましくない人
(政治家を例に取れば、賀屋興宣、建部遯吾)ということになる。
ここに描く音楽家の風貌も、一本の筆を通してみた単純なものである。
上田は、20年ほど前、鹽入亀輔に拾われて音楽の速記をやり始めるようになった。
座談会でもっとも多く接したのは野村光一とあらえびす。
座談会のテーマ以外に、両氏から聞いたお茶、古美術、ゴルフ、音楽家の
人生行路の話など、ゆたかな詩情と趣味の深さには敬服し、教わることが多い。
諸先生方の中には速記者を下手だと思うことがあるだろうが、誰にでも言葉の癖が
あり、それを反省してくれる人がどれだけあるだろうか。たとえば野村光一は
「・・・・・がね」「ただし」、深井史郎は「つまり」、枡源次郎は「いわゆる」という
言葉が連続して出てくる。/山田耕筰は15、16歳のころガンドレッド式速記を
ものしたそうだし、藤田不二[ふじた・ふじ]は英文速記ができるという。
山田から、かつて速記者は紙と睨めっこして筆を動かしていてはダメで、
喋る人の口を見ればいいのだと言われた。その山田耕筰をはじめ、大木正夫、
あらえびす、菅原明朗、田邊尚雄は、音楽家の中でも早口だ
(言葉はハッキリしているので苦手とは言えない)。さいきんよく接する
堀内敬三は、文壇における中村武羅夫と並ぶ司会の名手だ。しかも、
列席者の話の中から出るむずかしい言葉から、
固有名詞や述語を書き取っておいてくれて速記者の上田にあとで渡してくれる。
こうした心遣いをしてくれるのは、
堀内以外にあまりいない。/女性は語尾がハッキリせず、会が始まってもなかなか
喋らない傾向があるが、
草間加壽子などは相当はっきりしている。李香蘭は、よく喋る。高峰三枝子の
横で速記をしたことがあるが珍しいと見えて、座談会の間ずっと速記から
目を離さなかった。
メモ:筆者は、貴族院速記者。
◇楽界彙報(『音楽之友』 第2巻第6号 1942年06月 p.124-125)
内容:新交響楽団が日本交響楽団と改称
レコード文化協会発足 1942年4月8日、銀座西8丁目の全国蓄音機レコード製造協会に
レコード各社代表、
情報局上田第五部第三課長、内務省小川理事官、文部省里見指導課長等の
出席を得て、レコード文化協会創立総会を開催した。会長に武藤與市、常務理事に
竹越和夫、理事に伊東禿、鈴木幾三郎、長谷川卓郎、園部三郎、
小野賢一郎、深澤譲一、南口重太郎が選任されている。
続く
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