アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の六拾七 忠治処刑の詳細の壱八

2013年12月07日 | 近世の歴史の裏側

 

 

前回の請書から、村人が出て警固にあたり、よく見廻りをし、

囚人(国定忠治)へ荷担する者と見掛ければ差押える事などを

約束している。忠治の奪回を非常に怖れていた事が判る。

さらに「一カ村十五人ずつに六尺棒をもたせ目印の幟(のぼり)を

村ごとに立てさせ、忠治の番人を三人おき、見廻り十七人

計三百人余りが、忠治一行の到着する十二月二十日朝までに」

部署に付いている。

村民が動員されたのは萩生・本宿・須賀尾・大柏木・大戸・三島の

計六カ村であった。

更に、記述には「出方(註出勤)之儀者組合三島村共六ケ村、

都合惣人足三百人余、右傑場切払候人足之儀者地元三ケ村ニて拵申候」

とあるから、傑場の作業は、近い大戸、本宿、萩生の三村民が

出た事が読み取れる。

なを、現吾妻郡東吾妻町大字須賀尾生まれの、丸山不二夫氏は、

其著書加部安左衛門"江戸期在郷商人の事績"みやま文庫 2010発行の

中で、幟についてより詳細に、萩生村白色・本宿村黄色・須賀尾村浅黄色・

大柏木村桃色・大戸村赤色・三島村黒色、其の外に、

鉄砲持を一ケ村三人づつ立てたと記載している。

 

                      続く


真説 国定忠治 其の六拾六 忠治処刑の詳細の壱七

2013年12月06日 | 近世の歴史の裏側

 

   差上申一札之事

 国定村無宿忠治郎儀、当御関所近辺ニおゐて磔ニヒ抑付、

今廿日(註、寛永三年十二月二十目)大戸村泊り相成候間

村役人差添昼夜警固人足差出、異変無之様心付、村内勿論

村外並裏手迄も繁々見廻り、非常者不及申、囚人え荷担人と

見掛侯ハハ無用捨差可訴上候。警衛等閑有之侯ハハ、可様之

御咎ニも可ヒ仰付候。依之御請証文差上申処如件。

         当御代官所 上州吾妻郡萩生村

嘉永三年十二月         与頭 茂   ハ

                 同断 七郎即兵衛

               本宿村

                 名主 半 四 郎

                 与頭 与五右エ門

               須賀尾村

                 名主 伊 兵 衛

                 年寄 勘左衛門

               大柏木村

                 年寄 弥左府門

                 与頭 治右衛門

               大戸村

                 名主 市郎左衛門

                 与頭  (欠)

前書御仕置当村も大戸組合之故ヲ以警固人足等差出候儀之旨申

上候処、御聞済相成、右ニ付而者前同様可相心得旨ヒ仰渡承知

奉畏候。依之継添御受申上候。已上

            清水領知同国同郡三島村

                 年寄 太右衛門

                 名主 権兵衛

   林部善太左衛門様御手代

        秋 汲 平 様

                    続く


深く感謝申し上げます。

2013年12月05日 | Weblog

 

  毎日、多くの訪問、閲覧を賜り深く御礼申し上げます。

昨日も、下記の如く多くの御方に 閲覧、訪問頂きました。

12月4日のアクセス数

  • 閲覧数348
  • 訪問者数168
  • 順位:12,145位 / 1,960,099ブログ中

 なを、真説 国定忠治は、当初の想定より資料などが、多くなり

又、其解釈並びに、読み下し等に時間を要しておりますので、

年内の終了を目指しておりましたが、越年に成りますが、

今後共、訪問、閲覧戴きたくお願い申し上げます。




真説 国定忠治 其の六拾五 忠治処刑の詳細の壱六

2013年12月05日 | 近世の歴史の裏側

 

処刑場の大戸宿を中心とし、視された人々の前項の動きに

対して、取締組合の一つであった大戸からほど近い須賀尾村で、

処刑の際の動静や費用などを詳細に記録したものを、

吾妻郡須賀尾の、故高橋真道氏が所蔵していた。

 

この記録名は「嘉永三成年十二月廿一目、国定村無宿忠治郎於

大戸村御仕置ニ付諸人用帳、吾妻郡須賀尾村」と表書きされている

半紙綴折り横帳である。


大戸の故佐藤氏の記録よりも詳細であり、記述も各方面に

わたって詳述されている。

いま、この高橋家の記録をもととして、さらに処刊時の大戸宿を、

中心とした動きを見てゆく事にする。

まず、岩鼻代官の手代秋(佐藤氏記録には安本とあり)汲平

(波平の誤りと思うが、以後其の原文を記載する)から出された

村民狩り出し通知に対する請書から始まっている。

 

                        続く


真説 国定忠治 其の六拾四 忠治処刑の詳細の壱五

2013年12月04日 | 近世の歴史の裏側

 

 

 前回の記載からは、国定忠治処刑にあたり、中山道筋と草津街道筋の

の人たちが多く動員させられて、警固や刑揚造り、処刑の役などを

担当したことが、この三冊の資料で明らかである。

しかし、処刑の準備や執行はこの人達だけではなく、一方取締組合に

あたる吾妻郡の村民が大がかりに動員させられたのであって、

そのことは次回から記載する、故高橋真道氏の所蔵文書によって明らかである。

次回からは、此の二人の所蔵資料で忠治の処刑当時を推察する。


                        続く


真説 国定忠治 其の六拾参 忠治処刑の詳細の壱四

2013年12月03日 | 近世の歴史の裏側

 

 前回の後に、鎖多組合の板鼻宿年番助蔵からはじめ三ノ倉、

高崎、安中などの主な幹部の名が連記されている。

いずれも処刑に出勤した者である。

               帯刀人板鼻宿

                年 番   助 蔵

                〃     半三郎

                当 所   惣右衛門

                三ノ倉   源 助

                高崎小頭  小三郎

                〃     味右衛門

                豊岡小頭  久兵衛

                安中行事  孫 八

                〃     伊之助

                福島宿小頭 長十郎

                   煩ニ付名代  

                      勘 助

                東上芝   三十郎

                西上芝   滝右衛門

                箕輪村小頭 喜左衛門

                磯部村小頭 三右衛門

                草津小頭  三右衛門

               次第不同

 と認めらる。最後に、代官手代安本、秋葉、八州出役の

渡辺ほか三名の名があるが、これは第二冊と同じである。


                        続く


真説 国定忠治 其の六拾壱 忠治処刑の詳細の壱拾弐

2013年12月02日 | 近世の歴史の裏側

 

処刑の諸掛 第三冊目の惣右衛門手記は、半紙二つ折、

表紙共十枚で、表書に「当所御仕置二付、御用御出役様方外諸入用目録、

「大戸宿」と書かれている。

一部は浅草弾左衛門手下の氏名があり、前の第二回目の記録と重複している。

つぎに、

  右二付御罪場入用品々

 一、白木綿布               壱反

 一、栂五寸角柏 長サ弐間余        壱本

 一、松板                 三枚

 一、松弐寸角 長サ壱間          五本

 一、杉丸太 長サ三間余 根本四寸程   五拾本

 一、竹                 九拾本

 一、筵                 六壱枚

一、琉球莞席               四枚

一、篝槇                 九拾抱 

一、藁                  三駄

一、摺縄             壱百四拾八抱

一、四寸釘               四拾本

一、五寸釘               壱拾本

一、醤油樽                弐ツ

一、俵薦                 四ツ

一、鋤鍬                 壱挺

一、山刀                 壱挺

 一、鎌                   〃

 一、鋸                   〃

 一、鉄熊手                 〃

 一、かけ矢                 〃

 一、麻縄                 十筋程

これは、刑場をつくるのに使った材料と道具の員数目録である。


                           続く


真説 国定忠治 其の六拾 忠治処刑の詳細の壱拾壱

2013年12月01日 | 近世の歴史の裏側

 

この控は、行列次第書の次ぎに、

 

 寛永三戌ノ年十二月廿一目

 大戸宿字広願におゐて傑御仕置有之、

右二付江戸浅草弾左衛門様御手代 

関東御取締様

                 渡辺園十郎様

                  吉岡静肋様

                  関畝四郎様

                 安原寿以作様

             (矢) 面々数多有之

 以上の様に、処刑に立ちあった代官手代、八州取締出役、

刑場係の頭蝉左衛門と頭車善七の配下の者などが、

詳細に記されている。

 

                   続く