アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾七

2015年05月10日 | 近世の歴史の裏側

五目牛村の徳を訪ねた。帰宅してから聞いたのであるが、玉村宿の役人一河が相談の結果、徳が玉村宿へ出店(大津屋源助店借)することは支障ありと決まり、店受の保証人沢屋助左衛門が三右衛門と入れ違いに五目牛村の徳まで飛脚を立てて通知したとのことだ。

事態の急変に驚いた親戚の安五郎が、帰りの飛騨と一緒にやって来て、夜中に帰った。

 宿役人は合議の上、徳の大津屋源助旧宅への出店を拒んだのである。

融通無碍の江戸の社会とはいえ、玉村宿の公的決定を覆すことは土台無理である。福島村の住人とはいえ、玉村宿に居を構え二十四か村の組今村に睨みを利かす大総代の三右衛門であっても、この一件は万事休すであった。

五目牛村公私挙げて後見になってくれと頼まれ、女侠徳を愛人として保護したにも係らず、

後見の権威として玉村宿出店を暗黙のうちに引き受けていた三右衛門の男としての面目は丸潰れとなった。

きっぱりけじめをつける徳は、翌十日沢屋を訪れて、この件は無かった事と、店受を断わっている。 翌十一日、他の願いを裏切るような結果となったことの責任を取って、三右衛門は「世話」をする、受けるの「後見」を解消する一札を徳に渡した。

 

                                   つづく


伊与久 雷電神社創建八百年(群馬県伊勢崎市)          詳細其の弐一之進の算額

2015年05月09日 | 名所旧跡

                 

 今回の一面は、やはり村内館野の人で大谷一之進が明治二十八年に奉納したもので、

算額としては非常に新しいものである。すでに明治初年から洋式数学が行われるようになり、

昔からの和算は次第に廃される時期だったから、恐らく境町の和算家として一之進が最後の人だったかも知れない。 大谷一之進方明、元祖関流十八代相伝と称したが、この算額は一之進の七十七歳の時、子の槌昌芳と孫の鏡司によって掲げられた。すなわち一之進の喜寿の祝としたものであろう。

額面の大きさは横1、7メートル、縦1、5メートルもある立派なもので、客席、後見人、門弟などが二百二十一人の名前が連なっている。

 やはり二つの問題と答があげられているが、問題の第一は、「大円六個と小円三個が互に外接している、大円の直径が一寸のとき小円の直径は何寸か」という問題で、問題の図表が掲げて有り、その答と解き方が示される。

これは文化八年大原利明の著わした「算法真竄(サン、かくれる)指南」の中から取り出した問題である。 問題の第二はいわゆる虫喰算と称するもので、大切な証文の紙が虫に喰われて所々に文字が、

解らないので、そのところを補えというもので、「金一両について銀六十匁に両替する、米の相場は金一両で一石三斗買える、この時金百何両かと、銀十三匁八分で

米を□百□十三石七斗□升□合買った、□の所を補え」というものである。

この問題は額面に「精要算法」から取ったと示してある。精要算法は天明元年に関流の藤田真資が著わした算額書で、この中に一之進の算額にあげた虫喰算がある。


いずれも簡単な問題ばかりであるが、現代の人には残念ながらその文字自体を読み下す事が出来ないのが現実ある。

 


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾六

2015年05月08日 | 近世の歴史の裏側

息のかかった鶴舛屋米吉に任せている。

突如句大津屋の岩鼻陣屋出張といい、何かしっくりしていない。三右衛門に隠して仕組まれている。

米吉が名主清兵衛に提出したという書類は、徳の送籍の一札であったが、名主清兵衛の権限は

玉村宿に及ぶのか、宿内の意向を反映する「間屋一同」の相談とは米吉の言う通りであったのか。

三右衛門は、事態は収拾されたと思いこみ、徳を安心させて帰宅させた。

一日置いた四月九日事態は暗転した。

 

四月九日

 同日五目牛村徳方江罷出候、同宿役人一同相談ニ而右徳宿方江出店之義故障之向ニ而店受五目牛村徳迄飛脚相立候由、帰宅ニ而承り候 右村より安五郎・飛脚之もの同伴二而夜中ニ相帰り候

 

                               つづく

          読み下しは次回に致します


真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の弐拾五

2015年05月05日 | 近世の歴史の裏側

渡辺三右衛門の日記には、

 

四月七日

 五目牛村徳大津屋源助店一条ニ付故障有之由、四丁目荒井代次郎殿立入、

故障有無清次郎江聞合侯処、故障無之旨被及挨拶、亦隣家江は鶴舛屋米吉殿廻り呉、

対談ニ而源助殿は岩鼻御陣屋江御用之由ニ而出向之由、右ニ付右米吉殿迎之人差遣候由、

右故高崎より直ニ玉村宿江相帰リ候、 右は当番名主清兵衛殿迄届け人米吉殿ニ候処

何様故障之筋無之、尤家業渡世向ニ付旅龍屋ニ候ハバ、問屋一同之儀外家業は夫ニ不及

旨、仮令相談成とも故障相談ニは無之旨被申候由、米吉殿より被申候、右ニ付徳儀も其積リニ而相帰ル

 

 徳の大津屋源助店借の件につき故障か生じ、日野屋の荒井代次郎が立ち入って、故障の有無を清次郎に聞き合わせたところ、故障はないとの返事であった。

隣家へは鶴舛屋米吉が回ってくれたが、当の大津屋が領主岩鼻陣屋へ御用があって出向いているというので、米吉が人を遺って大津屋を呼び戻した。借家の件は、米吉が当番名主清兵衛に書類を届けたが、故障の筋はなかった、渡世向きは旅龍屋であれば、ほかの家業にしなくとも宿の問屋一同は良いとしている。

たとえ相談があったとしても、故障とする相談ではなかった、と米吉は言っている。

こういう訳で徳も安心して帰った。

 

                                            続く