アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ其の43 引用最多のサンカの研究書に疑問 一

2015年11月14日 | 近世の歴史の裏側

サンカにという言葉を聞くと ほとんど反射的に三角寛の名前を思い浮かべる方は少なくと、

思いますが、およそサンカなる集団に何がしかの関心をもつ方でその名を知らない人は、

居ないはずです。 

サンカを論じた著作物の中で もつともよく知られ かつ他の研究者及び観察者らに深刻な影響をおよぼし、

そして呪縛してきたのが三角の一連の研究書、随筆であったといっても、

まず異存はないところであると思います。 サンカ研究と三角とは それほど分かちがたく

結びついている。その集団の実像は、いまとなっては三角の著書を通じてしか伺えないと

考えている向きもいなお跡を絶っていない様である。好むと否とに係らず、

三角に触れずに、サンカを語ることはできないというのが、この分野における研究の実情では

ないだろうか? 

その代表作は「サンカの社会」である。昭和四十年に朝日新聞社から出版された。五年後に三

角は母念寺出版という会社を設立してそこからも同書を刊行したが、 内容、体裁とも全く変えて

いないのに なぜかタイトルだけを「サンカ社会の研究」と少し違えている。

平成十三年に現代書館から、後者の表題で復刻版が出された。

ここからでは、初出の「サンカの社会」を中心に用いることにした。

                                  つづく


幻の民サンカ其の42 サンカの事情と特徴その六

2015年11月11日 | 近世の歴史の裏側

久保田辰三郎の子供たちは ちょうどそんな時代に青年期や少年期を迎えていた。 

例えば 長男の始は昭和十五年一月の生まれだから 同三十五年には二〇歳だったこと

になる 彼は学校へは全く行っていない、もの心ついたときから両親らと共に埼玉県

中部地区の村落社会を回遊しながら見よう見真似で主に箕直しの仕事を手伝っていた。

もし箕が農具として使われる時代がまだ続いていたとしたら そのうち彼も父親のような

ちゃんとした職人になっていたことだろう、だがそうなる前に彼らはかつての暮らしを

やめていた。 

松島始(辰三郎は無籍だったから母ヒロの姓を名乗っていた)は、一六、七歳頃からは

農家の手伝い 瓦製造工場での労働などで家計を助けるようになっていた その当時

母のヒロと幼い弟 妹たちはおもらいに回って日々の食糧を得ることが少なくなかった。

それは以前から冬のあいだは彼らがしていたことであった。

 東松山市や嵐山町あたりの農村には、平成十年代になっても一家のことを覚えている住民が、

いくらでもいたが、彼らはおもらいさんだった、事を話す人も珍しくなかった。 

昭和三十八年十一月には そのころ一家が暮らしていた東松山市毛塚地先の

越辺川(おつべ川)の河原の小屋で母ヒロが病死する 既述のように乳がんであつたらしい、

これをきっかけに家族の離散が始まったのだった 

 ヒロは先夫とのあいだの三人を含め 合わせて10人の子を産んでいた 第一子(男)は 

おそらく戦後ほどなく農薬を飲んで自殺している 第二 第三 第五子言ずれも(女)は、

すでに外へ働きに出ていた、勤め先はみな飲食店であった残る六人のうち下の四人は母親の

死後、施設へあずけられる。結局、第四子と第六子の男二人だけが父親と一緒に暮らすことと

なったのである。そうして同四十四年に辰三郎が他界したあとは その二人も別々のところで

働くことが多かった、ところが それから30年ばかりのちには五人が かつての回遊域内の東松山市と

その近辺へ集まっていた、生きているきようだいでは一人を除いて、いつの間にか故郷ともいうべき土地

へ帰っていたのである。必ずしも仲がよかったわけではないが、いつでも連絡を取り合うことは

できた。 ただし、そのうち二人は平成二十三年秋現在すでに故人となっている 

                               つづく


幻の民サンカ其の41 サンカの事情と特徴その五

2015年11月09日 | 近世の歴史の裏側

箕については、弥生時代の遺跡からも発掘されている それは二千年以上にわたって

農民の暮らしに欠かせない道具であり続けて第二次大戦後もなおしばらくその状況は

変わらなかった 

昭和二十年代から三十年代の初めは その最後の大需要期であった 敗戦後の食糧難と

出征兵士たちの大量帰農は、農業の隆盛と農村の活性化をもたらした。

必需品の箕は作るそばから売れていったのである。栃木県宇都宮市のある仲卸し商は

当時を振り返って「箕は売るよりも仕入れの方がずっと大変だった」と、話している、

しかし、突然に凋落が訪れる 昭和三十年代半ばの、ほんの一、二年を境にぱったりと売れなく

なるのである 日本における農業機械の普及はそれほど急激であった。

農民は何かに駆り立てられるように、競って新式の機械に走った「隣が買ったんだから」

それが合言葉だった。彼らの中には そのために無理なローンを組んだ者も少なくなかった。

「機械化貧乏」といわれたものである。ミナオシたちには何か起きているのか

よくわからなかつたに違いない。 

経済の高度成長に伴いどの分野でも仕事は増えていた。中学校の新卒業生たちが「金の卵」と

呼ばれて企業に迎えられたのは、此の頃からであった出稼ぎを希望する者が支度金を

もらって列車に乗るようになったのも同じころである 選りごのみさえしなければ 働き口は

いくらでもあった。だがそれも文字と計算の能力を欠いた非定住民には 無縁の繁栄だった 

ミナオシたちは日々窮乏していきやがて集団は解体、消滅へと向かう。

                                            つづく

 


幻の民サンカ 其の40 サンカの事情と特徴その四

2015年11月08日 | 近世の歴史の裏側

伊藤によると「読み書きも計算もできず 料理もまるで駄目だったにというしたがって

「祝」の漢字も、」だれかが宛てたことになる。どこで生まれたのか本人にもわからず、

むろん夫も知らなかった、このようなことはミナオシの社会に出自をもつ者には、ごく普通の

ことであった。就職に際しては本籍 出生地、生年月日などがいわばつくられるが、

一般にあまり当てにならない。

例えば小川作次の妻 新井ふみである彼女は平成二年七月十九日に 埼玉県内のある特別養護

老人ホームで死去している。

ホームヘの届け出によれば 明治四十四年(1919)九月二十二日生まれとなっているから

満七八歳であった、本籍として埼玉県深谷市東方の ある番地が記録されている。しかしそこは

古くから桑畑で、少なくとも民家があった形跡はないと おそらくは架空の本籍地ではないか。 

ふみもまた文字能力を欠いていたことを考える

 伊藤と祝の結婚生活は つかず離れずといったものだった 

 昭和三十年代に入ると 箕の行商や修繕で暮らしていくことが だんだん難しくなってくる 

需要が減ったうえ 定住民の箕作り職人たちが工程の一部を機械化して、従来より安い箕を供給

しはじめたのである。伊藤は人に雇われて働くことが多くなった タイル屋 荒屋 段ボール工場などである

 その中には住み込みの仕事もあったさらに伊藤の服役が加わっていた 彼は前科四犯だと

話しておりすでに、記した二度のほかに もう二度 さして長い期間ではなかつたが 

刑務所で過ごしていることになる 

昭和三十五年には二人のあいだに男児が誕生する いや 産んだのは祝であつたが 父親は

伊藤ではなかった 夫婦のいずれとも十年余の付き合いの「日下部」という男だった、

元来はテキヤだが なぜかミナオシの群れに出入りしていた どうも伊藤が服役中の不倫らしい 

それに伊藤は無精子症(本人の言葉)だから 子供が生まれるはずはないのだった。

彼は四十数年後に(いま考えても腹が立つ)と漏らしていた。 

しかし伊藤は その子を認知して籍に入れる 彼自身も男女関係についてはいい加減であった。

生まれてきた子に責めがあるわけではないと考えたのかもしれないさらに彼は世間から「乞食」と

陰口をされるような漂浪生活に倦んでいた。そろそろ、ちゃんとした家庭を持ちたく

なっていたのである。

男児は のちに坂戸市内の小学校へ入学する「色白の可愛い子だった」と振り返る人が多い

だが その子はわずか九歳で他界する 急性肝炎であった。 

伊藤はこのころ すでにミナオシの集団を離れていた 最後まで行き来していた久保田辰三郎

の長男始も昭和四十五年前後に伊藤には何も告げず、どこかへ行ってしまう(おそらく神奈川

県の飯場に住み込みだと思われる)

それから10年ほどのちの同五十四年十一月 妻の祝が死亡している、頬の裏側にできた癌が

死因であった 祝は五一歳 伊藤は四九歳だった 

伊藤は一入ぼっちになったが、もう前のような放浪生活に戻ることはなかった。かつて働いた

ことがある段ボール工場の経営者の息子が 静岡県浅羽町(現袋井市)へ移って大きな紙器

メーカーの下請けの仕事をしており誘われてそこに勤めることになったのである。

彼は五〇歳からの二五年ばかりを、その下請け会社で過ごした六〇代のときには「王任」の

肩書きを貰っていた。 

晩年は体調がすぐれなかった、ときどき便器が真っ赤になるほどの下血があった それでも医

者には行かず、好きな酒や焼酎のお湯割りもやめなかった 若いじぶんから読書家で、

なかなかのもの知りだった アパー卜の一室で床に伏せつている時は一日中本のぺ―ジを

繰っていた。

平成二十二年七月 長く寝込むこともなく死去した。八十歳であった。

                                  つづく


幻の民サンカ 其の38 サンカの事情と特徴

2015年11月05日 | 近世の歴史の裏側

前回の事は、大きな事件であった 警察はT刀月半ほどのち いったん被害者宅

の隣人ら二人を逮捕したが 間もなく容疑がはれて釈放している この失態と捜査の手づまりが

当局を追いつめ焦らせていたろうことは想像に難くない そんな中で三月十五日 近隣一

帯を徘徊していたミナオシ集団の一人伊藤を別件の窃盗と恐喝罪で逮捕したのだつた。

恐らく浮浪者達を、標的にした見込み捜査によったのではないか、容疑はでっち上げといつて

よいような微罪であった。 伊藤は昼も夜も何人もの刑事に取り囲まれて「がんがん」やられた。

そのうち自分の年もわからなくなったという そうして三月二十日付けの新聞各紙に 姉弟殺しを自供した

旨の記事が、載ることになる 同月二十六日には殺人罪で再逮捕されている 

しかし伊藤が本件の殺人で起訴されることは ついになかった どうしても真犯人とすることができない

証拠が、あったものと思われる それが何かは 当時の新聞を繰っても見つからない、そもそも「目供」以後の

報道自体が殆ど無いのである。 

本件で不起訴の理由は 伊藤本人にもわからない 刑事からは何の説明もなかつたし勾留中は新聞など

読めなかった、彼はそのまま窃盗と恐喝罪で服役した。

伊藤が自分の逮捕を伝える新聞記事を目にしたのは それから四九年後のことである。  

なを、記事は昭和27年3月20日付の毎日新聞の埼玉版にある。

                                                   つづく

 


幻の民サンカ 其の37 サンカの事情と特徴Ⅱ

2015年11月02日 | 近世の歴史の裏側

山形県の本地屋の村へたどり着いたことが有るというから静岡県の西部からに

東北地方の山沿いを少なくとも南部までは さまよって行った事になる。 

伊藤は そのような漂浪生活の厳しさを骨の髄まで悟って山を下りる 

そのあと横浜市の野毛山で日雇い労働者をしたり 埼玉県熊谷市の荒川の河原や

同県大宮市の木賃宿で暮らした。

すさんだ日々のうちに いつの間にか盗癖を身につけたとみえ 昭和二十三年春 

窃盗罪で逮捕され、懲役六ヵ月から一年六カ月の不定期刑の判決を受け

 同年九月まで東京の豊多摩刑務所で服役している

仮釈放後の翌二十四年初めから吉見百穴で寝起きしはじめ、このとき辰三郎らと

知り合ったのだった。

伊藤は これから二十年ほどにわたってミナオシの社会で過ごしているが、

きちんとした箕を作る技術は結局 身につけることができなかった 同じことは 

やはり普通社会のでもあった。

大島太郎、小川作次についてもいえる 箕作りの技術というのは それほど習得が難しい、

彼らは修繕しかできない半端職人であった、その代わり彼らには別の利点があった。

もとから部内にいた人間と追って 読み書きと計算の能力をそなえていたことである 

伊藤昇は昭和二十七年の春 二一歳のとき生涯を通じて最も苛酷で恐ろしい体験をしている 

ある重大な殺人事件の犯人として逮捕されたのである 

その事件は前年の大みそかの午後 埼玉県今宿村(現鳩山町丿石坂の山林で起きた

近くの高坂村(現東松山市丿田本に体む二O歳の姉と一三歳の弟が薪と落葉ひろいに出かけ

何者かに草刈り嫌で顔面や頭部などをめった斬りにされたのである。

発見されたとき二人ともすでに死亡しており、

弟の顔には凶器の嫌が突き刺さつたまま残されていた。

 

                              つづく 

       


幻の民サンカ 其の36 サンカの事情と特徴

2015年11月01日 | 近世の歴史の裏側

昭和二十五年ごろから埼玉県嵐山町菅谷の都幾川縁を拠点に集団生活を送っていた五組の

夫婦のうち もともとミナオシ社会に生まれ 育った者は男性の方が久保田辰三郎 梅田留吉の

二人 女性は梅田の妻 川田イシを除く四人であった 残りの夫三人 妻一人は いずれも外部社

会からの流入者である 

 出自を異にする両者には それぞれどんな特徴があったのか その共同生活はどのようなもの

であったのかを見るために ここでは伊藤昇を取り上げることにしたい 

 伊藤は昭和五年(1930)五月 神奈川県横浜市南区高根町で生まれている 父は現在の山

梨県市川三郷町 母は静岡県湖西市の出身であった 昇には弟が一人いた 

 両親は昇が少年のころ相次いで病死している 父は脳溢血のため自宅の便所で倒れ 母は弟を

産んだあと体調を悪化させたのだという 二人の兄弟は 静岡県新居町(現湖西市)で洋服の仕

立て業をしていた母方の叔父のもとへあずけられた 昇が小学校三年生くらいのときである 同

地で初等料の六年を卒業すると 敗戦までの二年余り学徒動員のような形で鷲津町(現湖西市)の

工場で働いた。 戦後 伊藤は静岡県浜松市にあつた国鉄の浜松工機部へ就職する しかし、

そこでの動めは一年もつづかなかかったのだ 本人は「団体生活になじめなくて辞めた」と話していた そうして昭和二十一年の夏ごろ 当てのない放浪の旅へ出る。一六歳であった、 

 彼は「人と顔を合わすのが嫌で」山中ばかりを転々とする それは生やさしい日々ではなか

った ヤマメなどの川魚を平づかみで捕り キノコを採取した 蛇をつかまえ 皮をはいでから

焼いて食べたこともある 調味料などは いっさい使わない 口の中に雪を押し込んで空腹をご

まかしたこともあった ときには人がいない農家へ忍び込んで とくに食い物を失敬した 雨が

降ると一晩中 眠らないときもあった もちろん地図など持っていないので、

どこをどう歩いたかは判らない。

                           つづく