中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

間(あい)の宿「野上」の松並木(旧中山道を歩く 274)

2011年10月21日 10時10分46秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(すぐの信号を右折し国道21号線に入る)


(国道21号線の「新日守」の信号を右折)


(旧街道に似合う静かな道)

(関が原宿)
一里塚をあとに中山道を進む。
すぐ先の信号を右折し、平行に走ってきた国道21号線にはいる。
その先(新日守)の信号で国道21号線を右折し、
道路に沿って道なりに進むと、
信号の先で右に曲がっている国道21号線の上を、
自分では気づかないうちに通っていく。
旧道らしい静かな道になり、
いつの間にか関が原町に入っており、
少し行くと右手に石の鳥居と常夜灯二基があるのが見える。
常夜灯の前面に石柱があり、
「縣社 伊富岐(いぶき)神社」と刻んである。


(いぶき神社の鳥居)

その前を通り越すと、右手に野上の「七つ井戸」と案内のある井戸がある。
(ここ野上は、中山道垂井宿と関が原宿の間の宿(あいのしゅく)でした。
江戸時代の頃から、
僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に、
利用されてきました。
街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、
旅人には、喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったと推定されます。
近年は、水道事業が整備されて放置されてきましたが、
先人が残した遺産の再発見の見地から休憩所を兼ねて修復・再現しました。
この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができます。
但し飲まないでください。
また、汲むときは安全に充分ご注意ください。)(関が原町)とある。
井戸には釣る瓶桶が置かれており、
汲むことができるようになっているが、
衛生上のことは考えずに、喉を潤す旅人がいて、
お腹を壊し、自分の不注意を棚に上げて、
役場に怒鳴り込んでいる人がいたのであろう、
(飲まないでください)と注意書きがしてある。
垂井宿から関が原宿までは約5.5kmと案内書にはあるが、
この辺りが休憩するのに都合が良かったに違いない。

この近隣のお宅は裕福らしい立派な家が見受けられる。
回りは見渡す限り水田・畑が広がり、その先は山に囲まれている。
そんな田畑を少ない民家が保有していて作物の量が豊かなのか、
土地が肥沃なのか、その両方のせいかもしれないが、
豊かそうな家が多い。


(七つ井戸)


(裕福そうな家)


(裕福そうな家2)


(周りを山で囲まれた関が原らしい景色)

そんなことを考えながら進むと、
往時の街道を髣髴させる松並木が迫ってくる。
松並木街道の中ほど左手に、地蔵堂のようなものと水のみ場、
それに右手の松の根元に「天然記念物 旧中山道松並木」の石柱がある。
左手の地蔵堂については、「六部地蔵」というらしい。

この「六部地蔵」について、
(六部とは、「六十六部」の略で、全国の社寺などを巡礼して、
旅をしながら修業している「人」ということで、
厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が
「宝暦十一年頃(1761)」この地で亡くなられたので、
里人が祠を建てお祀りされたといわれております。
この六部地蔵さんは、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と
読まれているように、痛みのひどい病気を治すことで、
名を知られています。)(関が原町)とある。


(松並木)


(松並木2)


(松並木3、天然記念物の石碑)


(六部地蔵と水飲み場)


(六部地蔵)

松並木はここでひとまず終り、国道21号線に信号で合流し、
すぐまた右側の旧街道に入る。
今度は新たに植栽された松並木のようで、
道路には左側に歩道が作られ、
その左に若い松の木が並木よろしく植えられている。
しかし中山道の松並木といわれる大きさになるには、
まだ20~30年掛かるに違いない。
街道の並木を保存するのも並大抵の事ではない苦労がある。

その先で国道21号線に合流すると右側に
「村社 若宮八幡神社」がある。
これから関が原宿に入る。


(一旦21号線に合流した所にある信号)


(信号から先の旧道にある松並木)


(すぐ21号線に合流し右奥に見える林が若宮神社)











国指定史跡「垂井の一里塚」(旧中山道を歩く 273)

2011年10月16日 10時29分14秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(広重描く浮世絵「垂井」)


(突き当たりに見える「西の見付」を広重は描いた)

(垂井宿4)
広重が浮世絵を描いた場所、「西の見付」を通り越して、
左に松島の稲荷神社の前を過ぎると、
東海道本線の踏み切りに突き当たる。
自動車は向こうから一方通行で、人は通ることができる。
すぐ左に「中山道」の案内と国史跡「垂井の一里塚」の案内があるから


(稲荷神社)


(一方通行出口の踏み切り)


(踏切を出たところ国道21号線をまたぐ陸橋)


(田舎に不似合いな一流企業の看板)

案内にしたがって踏み切りを進む。
対面から自動車が入ってくると道路が狭く危険を感じるので、
すばやく通り抜けよう。
抜け出た所が国道21号線で、歩道橋を渡って道路を横断しよう。
振り向くと(日本板硝子株)のブルーの看板が目に入る。
さらに進むと左角の金網の隅に(南宮江近道八丁)の石標があり、
南宮神社への近道を示す道標だ。
先を見ると中山道の道路突き当たりに林らしきものが見える。
垂井の一里塚であろうと見当をつける。


(「南宮江近道八丁」の石碑)


(突き当たりの林のある所が有名な一里塚と思われる)

一里塚の手前に「日守の茶所」の古い建物が左手にある。
垂井町の案内に寄れば、
(江戸末期に、中山道関ヶ原宿の山中の芭蕉ゆかりの地
(常盤御前の墓所)にあった秋風庵を、
明治になって一里塚隣に移築し、中山道を通る人々の休み場として、
昭和初めまで盛んに利用された。
また、大垣新四国八十八箇所弘法の札所とし、
句詠の場としても利用された貴重な建物である。)(垂井町)とある。


(日守の茶所)


(国指定史跡「垂井の一里塚」)

この「日守の茶所」の隣に国史跡「垂井の一里塚」がある。
南側の一基だけが残って、塚の頂に松の木が植えられている。
本来一里塚は南北両側に造られ、頂に榎が植えられていた。
北側の一基がなくなっているのはまことに残念である。
今まで中山道を歩いて、南北両方とも残っているのは僅か15基のみ。
これから何基あるのだろうか・・・


(垂井の一里塚2)

中山道にある国指定史跡として残る一里塚は、
東京都板橋区にある「志村の一里塚」とここの二箇所のみである。
また、「垂井の一里塚」は、残念ながら南側の一基だけであるが、
「志村の一里塚」は南北一対で残り、頂には榎が植えられて、
往時の原形をとどめている。
また「志村の一里塚」は、
現在、旧中山道を拡幅した国道17号線の両側にある。
道路は往時の中山道より広くなっているが、
一里塚は往時のまま動いてはいないと言われる。
ずいぶん幅広く建てられたものである。

もっとも、旧中山道上で一里塚の幅が広く取られているのは他にもある。
塩尻宿にある「平出の一里塚」がそれだ。
南塚は道路に面してあるが、北塚は民家の向こう側にあり、
双方の間はかなりの開いた間隔がある。


(平出の一里塚、これも松が植えてある。)


(道路を挟んで真正面にある北側の一里塚。民家の裏側にある平出の一里塚。)


(国指定史跡の「志村の一里塚」)





垂井の泉と本龍寺(旧中山道を歩く 272)

2011年10月11日 10時26分53秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(垂井の泉)


(大ケヤキ)


(奥に湧き水が吹き出している見える「垂井の泉」)

(垂井宿3)
玉泉禅寺の山門脇に大ケヤキがあり、
その根元から水がこんこんと湧き出ている。
大ケヤキは樹齢八百年で、
県の天然記念物に指定されている。
あまり大きくなり過ぎたのであろう、
幹の途中 三箇所で伐ってある。
湧き出た水は池を巡って、
鯉が悠々と泳いでいてのどかそのもの。
泉の脇でお年寄りのおじいちゃんが、大根を洗っていた。

鯉が泳いでいる所にも水が噴出している所があり、
じいちゃんに、
「ここの水は本当に湧いているのですか?」と訊ねる。
「飲めるかということですか?」と逆に聞かれてしまった。
話が通じないので、そのまま
「ハイ」と受け流すと、
「飲むことは出来ませんが、野菜の洗い物ぐらいできますよ」と答えた。
お礼を言って会釈して帰ることにした。
大根はそのまま、洗いもしないで刻んで食べるのであろうか?
この湧き水「垂井」が、地名の起源になったという。


(「垂井の泉」湧き水の池)

ここ「垂井の泉」に松尾芭蕉も訪れたのか、

・葱白く 洗いあげたる 寒さかな

を残した句碑が、泉の左手に階段横にある。
(*)筆者注:長い間この俳句の葱をねぎと読んでいたが、
書き残した芭蕉の真蹟自画賛には、

・ねぶかしろく 洗いあげたる 寒さかな

となっており、「ねぎ」 でなく 「ねぶか 」が正しいことが判った。


(芭蕉句碑)


(街道らしい家並み)


(旅籠 長浜屋)


(油屋 卯吉家跡)


(本龍寺)


(明治天皇垂井御小休所の石碑と山門)

大鳥居に向って中山道に戻る途中も旧宿場らしい家が続く。
中山道を西に向う。
旅籠 長浜屋が右手に、ついで油屋宇吉家が左手にある。
道路を挟んで右手に本龍寺があり、
正面には「明治天皇垂井御小休所」の石碑があり、
立派な山門が見える。
このお寺の門や書院の玄関は元脇本陣のものを移築したという。
門を入って左手に本堂があり、本堂南、山門横の鐘楼の西側に時雨庵がある。
本堂と時雨庵の間に芭蕉句碑「作り木塚」もある。

垂井町教育委員会に寄れば、
(松尾芭蕉は元禄4年(1691)
この寺の住職 玄�彼(げんたん)(俳号 規外)と交友があり、
本龍寺に冬篭りして句を残し、
文化六年(1809)美濃派ゆかりの俳人傘狂(さんきょう)らの句碑を建て、
「作り木塚」と呼ばれている。
安政二年(1855)時雨庵ができ、
美濃派十五世園井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像も
大切に保管されている。)とある。

芭蕉俳句集(岩波文庫)によると、
(真蹟懐紙に
美濃の国 垂井の宿 規外が許に冬籠もりして、

・作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 

とあり、
これが「作り木塚」と呼ばれるゆえんである。


(脇本陣から移築したという玄関)


(本堂、この左手に「作り木塚」はある)


(時雨庵)


(本堂と時雨庵の間にある「作り木塚」、右上が芭蕉句碑)

本龍寺を出て、中山道を進むと道はやや登りになっていて、
突き当りの形になる手前の左手が「西の見付」になる。
広重の浮世絵木曽海道69次の内「垂井」は、
ここ「西の見付」を描いたものという。
現在と往時を見比べて欲しい。

(財)中山道広重美術館によれば、
(図は、雨がそぼ降る中を大名行列が宿場に差し掛かるところである。
人々は道をあけて座り、
行列の通り過ぎるのを待つことになる。
左右の店は休憩所だが、
どちらの店にも錦絵がかかっている。
左の店には、山に林の印が見え、
これは版元である伊勢利の商標である。
――中略――
本図は、大名行列を真正面見た構図で、
遠近を意識した描写になっている。
左右の休憩所もほぼ対称になっていて興味深い。)とある。


(「西の見付」)


(広重描く浮世絵「木曽海道69次之内 垂井」)








垂井宿(旧中山道を歩く 271)

2011年10月05日 10時47分25秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(垂井宿入り口の相川橋、「東の見付」から)


(垂井宿2)
20011/6/8、雨のち曇り、最高気温24℃の予定。
JR垂井駅を降りて、人足渡しだった相川橋の中山道をスタート。
すぐ左手に東町用心井戸がある。

昔は、どの宿場でも同じように、木造家屋の建築では、
大火事に見舞われることがしばしばであった。
用心のために、火の神様(浅間神社)を祀ったり、
隣家よりの類焼を防ぐために卯建(うだつ)をあげたり、
天水桶に水を張って門口に置いたり、消防団を結成したりなどなど、
防火の準備はそれぞれ行っていた。

垂井宿では防火井戸を用意した。
石組みも立派で、覘いてみると今でも水がみなぎり、
深さも2~3メートルと手ごろな防火井戸です。

(ここ垂井宿では、たびたびの大火に襲われ、
渇水期でも消火用水を確保するために、
西、中、東町にそれぞれ一箇所、
用心井戸を作りました。
ここにあるのは、その内の一つ、
東町の用心井戸です。)(垂井宿観光協会)とある。


(防火のための用心井戸)

道路はこの先で少し右へ曲がると、
その先は道路が突き当たりのように見えます。
突き当たりは旅籠(はたご)亀丸屋で、
今でも営業を続けている。
亀丸屋で道路は鉤の手になっている。


(突き当りが亀丸屋)


(亀丸屋の前が枡形になっているのが判る)

(旅籠亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、
二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している
貴重な旅籠である。
安永6年(1777)に建てられた間口五間・奥行き六.五間の母屋と離れに、
上段の間を含む八畳間が三つあり、
浪花講・文明講の指定宿(*)でもあった。
当時は南側に入り口があり、
二階には、鉄砲窓が残る珍しい造りである。)(垂井町)とある。

県内の中山道で、江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒というが、
もう一軒とは、細久手宿の大黒屋である。(2011年6月現在)

(*)筆者注:浪花講=お伊勢参りに集まった講、
      文明講については不明です。
昔は飯炊き女(女郎)を置いたいかがわしい旅館が多かったのに、
そうではない本来の宿泊を目的としたまじめな旅館を意味する指定旅館を指した。

鉤の手を進むと左に垂井宿の問屋がある。
垂井町の説明によれば、
(間口 5.5間、奥行7.5間の金岩家は、
代々弥一衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を務めた。
問屋には年寄、帳付、馬指、人即指などがいて、
荷物の運送を取り仕きり、
相川の人足渡の手配をしていた。
当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、
常備の25人25匹の人馬で送っていた。
大通行が幕末になると荷物が多くなり、
助郷の人馬を借りて運送した。)とある。


(垂井宿の問屋跡)

垂井宿の中山道は古い家が残っている。
先へ進むと、右手に妻入りの古い家があり、宿場らしい家並みが続く。
左手に本陣跡の石碑があり、その奥は医院になっている。
街道の役目を終わった本陣は、家の造りが大きかったので、
明治維新後、地方郵便局や、地方警察の分署、小学校等に使われた。

ここ垂井宿の本陣は、
(――前略――垂井宿の本陣職を務めた栗田家は、酒造業を営んでいました。
本陣の建物は、安永九年(1780)に焼失しましたが後に再建され,
(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。)(垂井町)とある。


(宿場に残る古い家)


(宿場に残る古い家2)


(垂井宿の本陣跡)

中山道は、その先左手に
「正一位中山 金山彦大神」の金文字の額が掲げられた石の大鳥居が、
脇に二基の常夜灯を置いて建っている。
右手の常夜灯の前に、用心井戸があった場所らしく、
今は不要のため蓋で閉じてある。西町の用心井戸であろう。

この鳥居の下をくぐって左折すると、
右手に玉泉禅寺の石柱があり、そのすぐ先に「垂井の泉」の看板がある。
玉泉禅寺の門前に「垂井の泉」があると言ったほうが解りやすい。


(石の大鳥居)


(常夜灯の前に蓋をしてある用心井戸)


(玉泉禅寺の山門前、左に見えるケヤキ)












垂井宿の入り口「相川橋」(旧中山道を歩く 270)

2011年10月01日 10時38分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(もう一つの「中山道」の案内看板)

(垂井宿)
中山道の案内のある道路には垂井町平尾とあり、
いつの間にか垂井町へ入ってきている。
少し歩くともう一つの「中山道」の案内看板がある。
何の変哲もない町中を歩いて、「中山道」に間違いないだろうかと、
気になり始める頃この案内看板は立っている。

少し先に「平尾御坊道」の自然石の道標がある。
右に行けば、願證寺・平尾御坊(*)へ出る。
(*)筆者注=平尾御坊とは地名平尾にある僧院、寺院を敬って言う言葉。
平尾の願證寺というお寺さんのこと。

(平尾御坊道の道標)

少し進むと(追分)の信号に出る。
信号を渡った左にコンビニがある。
と言うことはコンビニを利用する人口も多く、町の中に入ってきている。

信号が(追分)というから、
別の街道への分かれ道がなくてはおかしいと、
キョロキョロするもそれらしい道路は無い。
丁度歩いてきた、小母さんに
「垂井の駅はどちら?」と訊くと、
「少し行くと、この先に橋がありますから、
その橋を渡って左へ行くと駅ですよ」と回答。
「相当ありますか?」
「いえそれほどでもありませんよ」と仰る。


(追分の信号、左側にコンビにが見える)


(ずいぶん先まで直線は伸びて橋など見えそうもない)

お礼を言って分かれたが、道路は直線で先の方まで見える。
まだ相当ありそう。橋などありそうもない。
諦めて歩くことにした。
田舎の人の少しは、都会の人には計り知れない。

現役時代に、足立区の支店から東京都西多摩郡の支店に転勤になった。
その時、お得意様の挨拶に何軒か車で訪ねた。
「今日はもうこれでお終りにしよう」としたら、案内する人が、
「数分ほどですから、あともう一軒」というので頷いたら、
その数分が距離にしたら7~8kmあったと記憶している。
東京都足立区では、車で数分といえば混雑で2~3kmも走れればよい方、
西多摩郡では信号もなければ、田舎道で混雑もないから7~8kmは走る。
基準となっている物差しが違うのである。


(杭で支えられた地蔵堂)

中山道を進むと、右側に地蔵堂があり、お堂の両側が杭で支えられている。
支えが無ければ、ひっくり返るかもしれない。
道路は先の方で少し左へカーブしている。
近づくとカーブした道路は道にぶつかってT字路になっている様子。
T字路の左手の1画が垂井町の指定史跡になっている
そこには「垂井追分の道標」があり、
(是より 右 東海道大垣みち、左 木曽街道たにぐちみち)とある。


(追分の道標)

垂井町教育委員会の説明では、
(垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、
たいへん賑わう宿場でした。
追分は宿場の東に当たり、旅人が道に迷わないように、
自然石の道標が立てられた。
  ――中略――  
この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋 奥山文左衛門が建てたもので、
中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。)とある。

説明にあるように、昔から、道に迷う人のために道標は作られたのだ。
ボクが迷ったのは、はるか手前に(追分)の信号があるからで、
あの信号が(追分東)にでもなっていれば問題はなかった。


(昔は人足渡しであった相川橋)


(垂井宿東の見付の案内看板)

T字路は川の為で、T字路を右折するとすぐ橋があり、
これを渡ると垂井宿である。
橋を相川橋といい、江戸時代には人足渡しであったと、案内がある。
橋を渡り終えた所が垂井宿の(東の見付)で、
垂井町の説明では、
(垂井町は中山道の始点江戸日本橋から約440km、
五十八番目の宿になります。
見付は宿場の入り口に置かれ、
宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、
非常時には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約766mにわたり垂井宿が広がり、
広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。)とある。

ここで問題は五十八番目の宿場と書かれたことだ。
ボクは五十七番目であると記憶していたが、
これでは大津宿は70番目となり、
中山道69次が中山道70次になってしまう。
人が書く案内だから、こんな間違いがあるものだが、
毎日 目の前を通っている垂井町の住民は気が付かないのだろうか?
住民はともかく垂井町の観光協会や、
観光ガイドの方たちは、
こんな案内を見もしないのであろうか?
小学生や中学生が、住まいの歴史を調べる時に、
間違ってしまう。

すぐ横には、(中山道 垂井宿)の標柱があり、
さらに垂井町商工会青年部が造った立派な(垂井宿案内図)が掲示されている。


(中山道 垂井宿の標柱)


(垂井宿 案内図)

時計を見ると17時近い。
赤坂の金生山明星輪寺で時間をとられ、思わぬ時間が掛かってしまった。
いつもなら16時前後に切り上げる所なのに・・・

相川橋を渡り、左折してJR垂井駅に向かい今日の宿泊場所 大垣駅へ帰る。
本日の歩行数56876歩=約33kmであった。

なお、帰宅後、垂井町役場へ電話して、
江戸から数えて「58番目の宿場」の案内の間違いを、
「57番目の宿場」に訂正して頂くよう
依頼したことは言うまでもない。






国分寺跡(旧中山道を歩く 269)

2011年09月24日 09時58分57秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(国分寺道の道標)


(左手の教覚寺、山門右側に稲葉石見守の碑がある。)


(赤坂宿7)
国分寺の道標を見て右折。
左手に教覚寺というお寺がある。
ずいぶん立派なお寺である。
門前に「稲葉石見守正休公碑」が建っている。
余り聞きなれない名前であるが略歴を掲げておく。

稲葉石見守正休は、将軍(綱吉)の小姓組番頭から若年寄となる。
若年寄 正休が淀川改修工事の見積もりを4万両としたことに対し、
時の大老 堀田筑前守正俊がこれを過剰として、
別の者に半額で見積もりを立てさせ、
これを採用しようとしたため正休は面目を失い遺恨をもった。

正休は大老・老中用部屋で正俊に挨拶をした後、
用があるといって次の間に正俊を呼び出し
「天下のため、覚悟」と叫びながら脇差で討ち果たした。

その後、老中 大久保なにがしが駆けつけ切りかかったが、
正休は微笑んで無抵抗であった。
しかし、後から集まった者たちに滅多切りにされて即死した。
正休は美濃の国青野藩主であった。
江戸城中、刃傷沙汰の二件目の事件。
青野の城主であったので、ここに碑があるのは理解できた。
三件目は、有名な忠臣蔵の浅野匠頭長矩の刃傷事件である。
まさか「忠臣蔵」を知らない人はいないだろう。
となると、一件目が気にになるところ。

一件目は、豊島明重。
豊島氏といえば武蔵国に一大勢力を張った豪族で、
今でも東京都豊島区など名前が残る名門。
ことの起こりは、時の老中・井上家の長男と、
大坂町奉行・島田家の娘の縁談で、
仲人の労をとったのは明重である。
いよいよ婚儀の日が近づいたとき、
井上家側から今回の話は無かったことにする、
と一方的に破談を申し入れてきた。
しかも、井上家では山形の22万石の大名・鳥居家の娘を迎えると言うもの。
明重の胸中は収まらず、西の丸殿中で井上に出会うや
「武士に二言はない筈だ!」と絶叫し一気に井上を切り伏せた。
留めに入った小姓組の某が羽交い絞めにしてとめた所、
最早これまでと、明重持った刀で自らを刺し、
組み付いた小姓をも田楽刺しにし、二人とも絶命した。

昔の人は、やることがずいぶん荒っぽいですね。
覚悟の上とは言いながら・・・。


(教覚寺の山門から本堂を望む)


(先ほど渡った県道の先に美濃国分寺跡はある)

話が長くなったが、この教覚寺の前を抜けると広々と開けて、
見晴らしが良くなり、先ほどの広い通り(県道)を横断する。
その先に美濃国分寺跡が広がっている。

広々とした国分寺公園の先は青野山になっており、
景色はよいが人一人いなかった。
土、日、祭日には芝生で遊ぶ親子で溢れるのが目に浮かぶ場所である。
国分寺は土手に囲まれており、その土手の上には生垣がある。
国分寺ができた時には、ここに築地塀があったとされる。


(美濃国分寺跡の碑、この左右に築地塀があったとされる)


(築地塀のあったところ、今は生垣になっている)

説明には、
(寺域を区画するため、四囲の築地塀が設けられた。
塀は下部で幅6.2m、高さは3m程と考えられる。
南北と西側には外側に約3mの大溝がめぐる。
復元は下部を土盛芝張りとし、上面に山茶花を植栽した。)とある。
(史跡 美濃国分寺跡)の石碑があるところに南門があったところで、
説明によると、
(美濃国分寺の正門である南門の基壇の大きさは東西19.8m、
南北12mで、東西の中央部から幅6.2mの築地塀が連なる。)とある。

美濃国分寺については、
(美濃国分寺は、
美濃国府(不破郡垂井町府中)や不破の関(関が原町松尾)に近い、
ここ青野ヶ原の景勝地に建立されました。
背後に青野山がひかえ、南は東山道に面して建てられた国分寺は、
わずかに塔跡を残すのみで、地中に埋もれていました。
昭和43年(1968)度から始まった発掘調査で、
伽藍の大部分が明らかになった。
伽藍の範囲は東西230m、南北250m以上で、
周囲には築地大垣をめぐらせていました。――後略)とある。

長いので、概略を述べると、国分寺は仁和3年(877)焼失し、
その後10世紀前半~中頃に再建され、12世紀末にはその機能を失ったらしい。
青野山にある、現美濃国分寺は元和元年(1656)に立てられた物で、
國分尼寺跡は垂井町平尾にあるとのこと。
伽藍配置図を撮って貼り付けて置きます。
この時代の国分寺にご興味のある方は是非お訪ねください。


(伽藍配置図)


(その遺構)

中山道に戻り進むと、左手に中山道一里塚跡の石碑と常夜灯がたっている。
青野ヶ原の一里塚で、江戸から数えて111番目にあたる。

まもなく道路上に見える「中山道」の案内には垂井町平尾とあり、
垂井町に入っている。


(青野ヶ原の一里塚跡)


(垂井町平尾の町並み)


(一里塚から振り返った町の様子)












照手姫伝説「水汲みの井戸」(旧中山道を歩く 268)

2011年09月18日 09時51分36秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(照手姫水汲みの井戸)

(赤坂宿6)
中山道から少し南に入った所に、伝説の水汲みの井戸はある。

説教浄瑠璃「小栗判官」は悲恋物語であるが、
その相手の照手姫についていじめ抜かれた概略を、
伝承地「照手姫の水汲みの井戸」として、
次のように説明されている。

(昔、武蔵・相模・の郡代の娘で照手姫という
絶世の美人がいました。
この姫と相思相愛の小栗判官正清は、
郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。
照手姫は深く悲しみ家を出て放浪して、
青墓の大炊長者の所まで売られてきました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、
姫は拒み通しました。
怒った長者は一度に百頭の馬に餌をやれとか、
竹篭で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、
照手姫が忘れられず、姫を探して妻に迎えました。
この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられる所です。)
(大垣市教育委員会)

今も昔もいじめは変わらずあったのですね。

(水汲みの井戸)

中山道に戻り西に進む。
山に囲まれた田んぼの中を進むと広い通りに出る。
通りの手前に例の青墓の白い杭が立っている。
広い通りを右に行くべきか、直進すべきか迷う所である。
信号はなく、道路の向こうにコンビニがあり、
直進するなら相当な交通量の車の間を見計らって横断しなければならない。
中山道の案内があるのだが、矢印が斜め右を向いており、
広い通り(県道)を進むべきか、コンビニの後ろへ進む道をとるか迷う。

結局、コンビニの後ろへ続く道を選び、道路を注意して渡る。
すこしして、田んぼの中を通る道に「中山道」の案内看板があり、
道が間違っていないことを確認する。

しばらくして、道路右側の田んぼの角に、国分寺道の道標がある。
右折して国分寺跡に向う。


(青墓の白杭)


(広い道路の向こうにコンビ二がある)


(コンビニの後ろの道を行く)


(田圃の中の道を行く)


(国分寺道の道標)






「よしたけあん」の円願寺(旧中山道を歩く 267)

2011年09月13日 10時44分49秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(よしたけあんと円願寺跡の標柱)

(赤坂宿5)
初めに、(∴よし竹 円願寺(*)の白杭のほうに行く。
(*)ここにあった円願寺は焼失したとのこと。

ここには大垣市立青墓小学校による青墓伝説が次のように書かれている。
(牛若丸(のちの義経)が、京の鞍馬山で修業を終え、
金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ち延びる時、
円願寺(円興寺の末寺)で休み、亡くなった父や、兄の霊を供養し、
源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面に突き刺し、
「さしおくも形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
の歌を詠み、東北へ出立しました。
その願いが仏様に通じたのか、その後、
杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。
そして見事な枝に竹の葉が茂りましたが、
しかし、根や幹はもとのままのよしでした。
この珍しい竹は、その後もぐんぐん成長し続けました。
それでこの珍しい竹を「よし竹」と呼び、
この寺(円願寺)を「よしたけあん」と呼ぶようになりました。)とある。

この説明版の横に阿弥陀如来像が立っているが、
竹になったよしは生えていなかった。
その左隣に数個の五輪の塔が並んでおり、
ここにも大垣市立青墓小学校の(小笹竹ノ塚)と題して説明板がある。
(青墓にむかし照手姫という遊女あり、この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にもだせり、
そのころ両人在りし候や詳(つまび)らかならず。(木曾名所絵図より)

・一夜見し 人の情けにたちかえる
          心に残る青墓の里   慈円(後の慈鎮)

(天台宗座主  愚管抄の作者)とある。

どうも分かりにくいが、次のように解釈できる。
(青墓に照手姫という遊女がいたが、この墓がその遊女の墓であるらしい。
同じ時代に、照手姫は東海道の藤沢にもお墓があった。
はっきりしないが、このころ同じ名の照手姫は二人いたのかもしれない。
(木曾名所絵図に記されている。)と。


(小笹竹の塚の照手姫の墓)

さて、五輪の塔は形を成したものが、五個も並んでいるが、
どれが照手姫の墓であるかわからない。
一番大きなものがそれとしておこう、昔の話しであるし、
作り話であるかもしれないから・・・

少し戻って、「照手姫水汲井戸」の石柱から左へ折れてみると、
民家を一軒通り越して、麦畑の中の前方に、
それらしき森が見える。


(照手姫水汲井戸跡左の石柱)


(照手姫水汲みの井戸がある所)





昼飯(ひるい)と青墓(旧中山道を歩く 266)

2011年09月08日 09時55分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(善光寺「晝飯」御憩旧蹟)


(史跡の里 「青墓」町)

(赤坂宿4)
中山道を西に進むと、左手に赤坂宿御使者場跡の石柱があり、
その右手に小山を昇る石段がある。

大垣市教育委員会の案内によれば、
(この墳丘は、関が原決戦の前日(1600年9月14日)、
杭瀬川の戦いに笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将を葬り、
その鎧兜を埋めたと伝えられ、
以後この古墳を「兜塚(かぶとづか)」と呼ばれている。)とある。


(兜塚)

その先にある踏切を渡り昼飯町(ひるいまち)にはいる。
しばらくすると、左手のやや奥まった所に大きな古墳が見える。
大塚古墳というらしい。
ここ昼飯町から、その先訪れる青墓町、垂井町にかけては、
沢山の古墳があるようだ。


(大塚古墳)

中山道を進むと、その先右手に「浄土宗 如来寺」がある。
ここに「昼飯町の由来」が出ているので紹介する。

(むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、
長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像を運ぶ人が、青墓の近くまで来た時は五月の中ごろでした。
近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花咲き乱れる素晴らしい光景です。
善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、
美しい景色に見とれました。ここで一行は昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この辺りを昼飯(ひるめし)というようになりました。
しかし、その呼び名が下品であるというので、
その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と
呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音し難いため、
「い」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
また、この池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」といわれ、
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。)
(大垣市立青墓小学校 (大垣市史青墓編より)とあり、
非常に解りやすくやさしく書かれている。

きっと、これは小学生が「ひるめし」と書くのに、
どうして「ひるい」というのかと、
先生や親御さんに詰め寄って、
自分がわかるように、いろいろ質問するから、
詳しく、しかもやさしく説明がしてあると思われる。


(如来寺とその奥にある「昼飯の由来」)


(如来寺の山門、鐘楼、本堂)

中山道はその先東海道本線のガードがあるが、
その手前右手の広場に(史跡の里 青墓の案内図)がある。
「青墓」には沢山の史跡があり全部見て歩くには、
たっぷり二日ほど必要になりそうである。
ガードをくぐって「青墓」に入る。


(東海道のガード)


(青墓の史跡案内図)

すぐ目の前に、田舎にしては目立つ「史跡の里 青墓町」の
白い標柱が建っている。
道路両側に古い家並みがしばらく続く。
右手の延長寺に石柱があり、
民家の間を抜ける参道があって、その先に山門があるが、
その山門のうえに天守閣のような一室が乗っている。
奇妙な門で、その下をくぐりたくなり、お寺に向う。
山門の上の天守閣の中は、下から見ると、がらんどうで、
ただ門に威厳を持たせただけのように見た。
何か理由があるのかもしれない。

後で調べたら、この天守閣のような、櫓のような山門は、
青野城の大門であったものを移築したものらしい。
青野城藩主は稲葉石見守正休で、
江戸城内刃傷事件の二件目の主犯であった。


(青墓の古い街並)


(延長寺)


(山門に天守閣が乗っている)

話をもどして
その先の右奥に白髭神社があり、
ここにも(史跡の里 青墓町)の白杭があって目立つ。
この杭の左手を奥に進むと圓興寺があり、
国宝 観世音菩薩の石碑が中山道脇に建っていたが、
距離がありそうなので行くのを止める。
時間が在り、興味のある人は訪ねると面白いと思われる。


(白髭神社と青墓の白杭)


(中山道沿いにある円興寺の石碑)


(立派な長屋門)

中山道を先に進むと、右手に立派な長屋門がある。
今時、このような立派な長屋門はなかなか見ることができない。
少し進むと左手の金網のフェンス角に、「照手姫水汲井戸」の石碑があり、
後ろの電柱に「照手姫水汲井戸」は左へと矢印がある。
その10mも先の右手に、目立つ白杭(史跡の里 青墓町)があり、
その杭の右横に(∴よし竹 円願寺)と書いてある。

近づくと、(青墓のよしたけあん)として伝説が書かれている。
その左隣に(小笹竹の塚)とあり、
伝説に伝えられる照手姫の墓がある。


(照手姫水汲井戸の石柱)


(青墓のよしたけあん)







金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」②(旧中山道を歩く 265)

2011年09月03日 10時35分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(参道脇にある奥の細道の芭蕉の句碑)

(赤坂宿3)
金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」の参道に入ると、
左右に沢山の石灯篭が並んでいる。

参道の左脇に、「奥の細道 芭蕉句碑」の看板が目に付く。
脇の林の一段登った所に句碑はある。
碑は金生山産の大湖石(石灰岩)で、芭蕉翁の俳句が右上に刻まれ、
左下に大垣市文化財保護協会が建てた由来を述べている。

右上に、
(・鳩の聲(こえ)身に入(しみ)わたる岩戸哉   はせお)

左下に、
(赤坂の虚空蔵にて
   八月二十八日奥の院      はせお
・はとのこえみにしみわたるいわとかな

芭蕉奥の細道の旅元禄二年の作(漆島所載)を
故吉田門治郎氏の遺志を継ぎここに建碑す。
昭和四十七年秋 大垣市文化財保護協会)とある。

松尾芭蕉は「奥の細道結びの地」として大垣に滞在したが、
その間に、赤坂の「こくぞうさん」に参詣したようである。

「こくぞうさん」は、修験道の開祖 役の小角(えんのおずの)が
朱鳥元年(686年)に開基したと伝えられ、
本尊は小角が岩窟の中に彫ったと言われ秘仏であるという。

参道には「日本三尊佛随一」の石塔がある。
(その三尊とは、伊勢朝熊山の朝虚空蔵、京都嵯峨野の昼虚空蔵と共に、
赤坂の宵虚空蔵といわれている)(大垣市赤坂商工会)
この石塔の奥に山門はある。


(日本三尊佛随一の石塔)

山門には、両側に金剛力士像が安置され、
岐阜県の重要文化財に指定されている。
(檜材を主体とした寄木造りで鎌倉時代の初期の製作で、
仁王像の中では比較的大きい秀作である。
山門右側に阿形(あぎょう)、左側に吽形(うんぎょう)の
二尊が安置されている。)(大垣市赤坂商工会)


(右の阿形(あぎょう)


(左の吽形(うんぎょう)

この仁王像の「阿(あ)」と「吽(ん)」は、「アイウエオ」の「ア」と
「アイウエオ」50音の「ン」を表わしている。
「ア」から「ン」までの間に、
辞書を見れば世の中の凡そ「すべて」が記されているように、
「ア」から「ン」までの、世の森羅万象の「全て」の間を抜けて、
つまり、仁王像の阿形から吽形の間を通り抜けて、
極楽浄土(=天国)つまり本堂への道をたどる。

ここで問題は、阿形が右側、吽形が左側にあることだ。
つまり横書きにした場合、今ボクが書いたように「左から右へ」
「ア」から「ン」が並ぶ所が、
太平洋戦争以前は、横書きの場合、右から書くのが正しかったからだ。
つまり「アイウエオ」は「オエウイア」と右から書くのが正しかった。
ということは、「ア」から「ン」は、
右書きだから阿形が右、吽形が左にあって正しい。

話がそれてしまったが
山門をくぐると、参道の脇に水屋があり、
身を清め本堂に向う。


(水屋)


(子育大菩薩地蔵堂)


(仏像群)


(仏像群2)

途中、国宝 子安子育地蔵大菩薩があり、
沢山の仏像殿があり、見るところは多い。
一番奥に明星輪寺本堂がある。
大垣市重要文化財に指定されている本堂について、
(この本堂は、文久三年(1863)に
大垣藩主戸田氏彬(うじあきら)によって再建され、
日本三大虚空蔵の一つである本尊の虚空蔵菩薩が安置されていることから
「虚空蔵堂」とも呼ばれています。
正面は入母屋造りで、唐破風の向拝が付けられ、
背面は切妻で、本尊が祀られている岩窟を覆う屋根が続いています。
――後略)(大垣市教育委員会)とある。

この本堂は最初慶長十四年(1604)、明暦二年(1656)に再建され、
さらに(1863)に再度建設されたという。
本堂入り口には本尊御前立の仏像が安置され、
奥に岩窟に入る順路がある。
(有料の案内があった記憶である。
秘仏の虚空蔵菩薩には会えるかどうか不明。
投稿者ケンさんのご指摘により訂正。後ほど確認の予定。)

金生山明星輪寺をあとに、
きた道を戻り中山道を西に進む


(本尊御前立の仏像)


(本殿の入母屋造り)


(明星輪寺から見た赤坂の街)