中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

小紅の渡し(おべにのわたし)(旧中山道を歩く 254)

2011年07月17日 10時54分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(小紅の渡し)

(河渡宿)
鏡島弘法の乙津寺を出ると、「小紅の渡し」右の看板がある。

「小紅の渡し」について、岐阜市教育委員会の説明によると、

(ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として
「小紅の渡し」が設けられています。
この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、
約1km下流にあった中山道「河渡の渡し」と共に栄えていました。
現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。
近代的な橋の施行技術が発達する以前は各地に渡しがありました。
現在では、小紅の渡しが岐阜市内に現存する唯一の渡しとなりました。
なお、小紅の名の由来については、いろいろな説があり、
お紅という名の女性の船頭がいたとか、
川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直したとか、
紅を採る草が生えていた、などの言い伝えがあります。)

看板の右手を見ると川の土手になっており、
土手に登る階段がある。
階段には、小紅の渡しは土手を登るとでかでかと書いてある。
土手に上れば今度は下ると書いてあり、
降りれば川べりへ出る案内がある。


(小紅の渡しへの階段)


(土手を下る階段)


(渡しの船乗り場)


(対岸の小屋へ手を振って合図する)

川べりで対岸に手を振ると、
対岸の小屋にいる船頭が見つけて、
船をこちらへ滑るように動かしてくる。
舟にも(小紅の渡し)と書いてある。

風の向きがボクから見れば追い風であったためか、
エンジン音は全く聞こえず、
川の流れを利用して動かしているのかと思うほど、
静かにやってくる。


(音もなく滑るようにやって来る)

船に乗るとエンジン音がするのに気づく。
船頭さんは一年中日光に照らされているせいか、
真っ黒に日焼けしている。

渡しの料金は無料である。
岐阜市がこの舟渡しを管理しているからである。
だから船頭さんは公務員ということだろうか?
今、地方の自治体は財政難であろうから、
渡しを維持するのも楽ではない。


(乗り場へ向う船)


(対岸に向う船)

渓斎英泉画く浮世絵
「木曽海道六拾九次之内(岐阻路ノ駅 河渡 長良川鵜飼船)」では、
長良川の鵜飼船を画いている。
(鵜飼は古来より伝わる漁法で、
古くは(古事記、日本書紀)にもその記録が見えるという。
織田信長以来大名の庇護を受けた鵜飼は、
船首にかがり火の松明を焚き、
舟を流しながら行うものであるという。
この浮世絵では、かがり火により舟だけが照らされ、
後はシルエットで表現されている。
水上部と水中が見事に描き出されている。
また、背景の濃淡によって金華山がみえる。)
(歌川広重・渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内」より抜粋)


(栄泉描浮世絵「木曽海道六拾九次之内」(岐阻路ノ駅 河渡 長良川鵜飼船)

舟を降りて土手を上がり、
土手の上を左方向へ時計回りで歩き橋を渡ると、
岐阜市立合渡小学校が目の前にある。
まさか小学生が通うために、
この渡し舟を使っているということは無いだろう。


(土手を時計回りに半円を書くとある橋)


(橋の向こうにある合渡小学校)







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鏡島弘法 「乙津寺(おっしんじ)」(旧中山道を歩く 253)

2011年07月12日 09時33分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鏡島弘法「乙津寺」)

(加納宿3)
岐阜市の歴史的建造物として残されている旧加納町役場を過ぎ、
中山道は西に向うと、右側に「中山道加納宿当分本陣跡」の碑がある。
当分ということは間に合わせで、補助的なに置かれた本陣のこと。
それにしても脇本陣もあることなのに・・・
その碑の左横には(明治天皇御小休所跡)と書かれている。
何か事情があって、天皇がお休みになる場所を造って、
本陣とし、本来の本陣の補助的役割を果たしたのであろう。

加納宿には本陣も脇本陣も残っていない。
残っているのは、標柱だけである。
しばらくして加納宿西問屋跡、脇本陣跡があり、
JR岐阜駅から伸びてきた道路と交差する。


(当分本陣跡)


(加納宿問屋跡)


(脇本陣跡)


(岐阜駅から来た広い道)

考えたら、お昼弁当を出発前に駅で買うところ、買うのを忘れていた。
丁度お昼でもあり、お手洗いにも寄りたいので岐阜駅に向う。
駅には岐阜観光案内所もあることだから、
西の番所跡のあり場所も聞いておきたい。

食事とお手洗いを済ませて、観光案内所を訪ねる。
西番所跡は駅から伸びた広い通りより西にあり、
しかも行く手の左側にあることが解った。

旧中山道に戻って駅から来た道から右折するも、
西番所跡はなかなか見つからない。
左手に秋葉神社はある。
余り見つからないので、秋葉神社を振り返ると、
中山道加納宿西番所跡の石柱が見えるではないか。


(秋葉神社、手前の後ろ向き西番所跡標柱)


(西番所跡)

何のことはない秋葉神社の敷地内に西番所跡の碑はあるが、
その碑が西向きになっているから、
江戸方面から来た人には背面しか見えないため、
なかなか見つからないのだ。
これが京都方面から来れば、何の苦もなく見つかるであろうに・・・

ここが加納宿西の入り口であろう。
東の番所跡からおよそ2kmあるという。
先に進むと左手に阿賀多神社があり、
その先に(中山道)の案内がある。
この辺りに一里塚があったものと思われる。


(阿賀多神社)


(中山道の案内、この辺りにあった一里塚)

先に進むと東海道線の高架と交差する場所に出る。
(清水町2)の信号である。
中山道はどちらなのか、ここではたと困った。
直進した所には目印となるものはどこにも見当たらない。
高架をくぐって向こう側へ出てみると、
左手の金網のフェンスに
(本荘まちづくり協議会)作成の案内があることが解った。


(清水2の信号)


(中山道の道案内地図)


(東海道線の高架をくぐった先)

案内によれば、高架をくぐって向こう側に出て、
道路は二手に分かれるが、
手前の道を進むのが中山道であると示してある。
手前の道を十数歩進むと、
右側の金網に(中山道)の案内がありホッとする。
その道路を出たところが、また変形の交叉点になっていて、
道路向こう側にある「いちだクリニック」脇の道路の、
その向こう側の道路を行くように案内がある。


(手前の道路を十数歩進むと見える中山道の案内)


(ワンブロック進むと変則交差点、いちだクリニックのビルが見える)


(ここにもフェンスに本荘まちづくり協議会の案内がある)

案内どおり進むと、進んだ先の右側に本荘小学校があり、
道路際に学校のお手洗いがある。
必要の方は是非ご利用をお勧めする。この先田舎道には
W.C.はない。

この先に進むとまた厄介な道路に出るが、
親切にも本荘まちづくり協議会の丁寧な案内に沿って進めばよい。
やがて広い交叉点に出る。
道路向こう側に八幡神社が見える。
道路を渡ると「中山道の案内」があるので、
この地図に従って進む。


(反対側に八幡神社が見える、森医院の間の道路を進む)


(八幡神社にある案内)

次の信号が(鏡島大橋南)で広い通りを横切り進む。
地図の通りT字路に出てこれを左折すると、
左手に(鏡島弘法前)のバス停があり、その先右側に
「瑞甲山 乙津寺」の石碑があり。
中山道はこの石碑を右手に見ながら、
道なりに進むと長良川に掛かる河渡橋へ出る。
橋を渡ってすぐ左折し土手沿いに歩けば中山道である。

しかし、鏡島弘法の乙津寺の裏手に、
長良川を渡す「小紅の渡し(おべにのわたし)」が今でもまだ健在ということを聞いて、
どうしても舟で長良川を越えたい。
せっかくここまで来たから、鏡島の乙津寺へ寄って、
その裏手の渡しへ行きたいものである。

「乙津寺」の石碑のある場所の左横の道路を覘くと
奥に赤い鳥居が見え、
その横に「弘法入り口」の案内看板が見えるので進む。
赤い鳥居まで来ると、
右横方向に山門があり手前に(弘法大師)の石柱が見える。


(鏡島大橋南の信号)


(T字路を左へ)


(左にある鏡島弘法前のバス停)


(右手の乙津寺の石柱)


(奥を覘くと弘法入り口と赤い鳥居が見える)


(山門の弘法大師の石柱)

ここが鏡島弘法 「乙津寺」である。
門をくぐると、左手に工事中の金網があり、
正面に本堂らしきものが見える。
その手前に御神木と書いた大楠の木があり、
およそ400年経っているらしいが、
相当な大きさである。
正面にある真新しい建物は本殿(?)なのかよく解らない。

この真新しい本殿の左横に、
四国八十八箇所の南無弘法大師の旗がはためいている。
その旗のほうへ行くと、八十八個の大師像が並んでいる。
カタカナのコの字がたに並んでいる八十八個の像の前で、
手を合わせ進むと、乙津寺の裏手へでる。

出たところに「小紅の渡し右」の看板がある。


(山門をくぐると本殿?)


(手前のご神木、樹齢400年)


(こちらへ遷宮?)


(四国八十八箇所)


(四国八十八箇所2)


(小紅の渡しの案内看板)












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加納宿の枡形と歴史的建造物(旧中山道を歩く 252)

2011年07月06日 09時49分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(広重画浮世絵 木曾海道69次之内「加納」)


(だんごや)

(加納宿2)
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形である。

(だんごや)の店角に(中山道 加納宿)の標柱が建っている。
進んだ左生垣の中に(中山道 加納宿 八幡町)の地図入り案内もある。
その先に「加納大橋」があり、浅いけれど水が綺麗に流れている。
橋の欄干に彫られた胴板は、浮世絵の参勤交代行列図で、
童謡(まりと殿様)の唄を思い出させる。

少し進むと、左手の駐車場角に道標があり(左西京 右岐阜・谷汲)とあり、
この手前を左折します。
ここが第二の枡形になる。
左折して少し歩くと、右手の広い通りへ出る手前の右側に、
(中山道加納宿の東番所跡)の碑があり、
これを左折する。
これが第三の枡形になる。
左折すると正面に(法性山 善徳寺)があり、これを右折する。
ここが第4の枡形になる。


(だんごや脇の標柱)


(中山道の案内地図)


(加納大橋)


(浮世絵のモチーフ1。上の浮世絵と比較ください)


(浮世絵のモチーフ2。上の浮世絵と比較ください)


(第二の枡形)


(第三の枡形)


(第四の枡形、善徳寺)

広い通りを横切って、茶色のアスファルトを進むのが中山道。
通りの隅のU字溝の蓋に(中山道 御鮨街道)とある。
左手に(東福寺)を見て進むと、
同じ左手、道路を挟んで向こう側に太田薬局がある。
その店前に(左中山道)の石碑があり、ここを左折する。
ここが第五の枡形。


(茶色のコンクリート道路)


(中山道、加納宿のU字溝の蓋)


(東福寺)


(太田薬局、店頭の中山道の石碑が見える、第五の枡形)

少し先の橋を渡り終えた左側に(高札場跡)の看板がある。
ここからが昔の宿場があったところであろう。
関東では名主、その他では庄屋が宿場や村の治安維持に努めた。
各宿場や村へ入ってくるよそ者に、
宿場や村の決まり(法律)を知らせるために、
宿場や村の出入り口に置かれた高札場を管理していた。
時には文字の読めない人には読んでやることもした。
旅人などよそ者は高札場の前では、
笠を取って読んだといわれる。

話がそれたが、高札場の前を通り抜けると、信号にでる。
信号手前に(加納城大手門跡)の石碑がある。
中山道はここを右折する。
ここが第六の枡形になる。


(高札場跡)


(加納城大手門跡、第六の枡形)

案内ではこの近くにお手洗いがあることになっている。
お手洗いがあることを期待していたが、どうも見当たらない。
我慢をして先へ歩くことにする。

右折すると道路は茶色のアスファルトが続いている。
中山道である。
すぐ左手に旧加納町役場が、岐阜市の歴史的建造物として残されている。
この建物は文化庁に登録された有形文化財である。

見るからに古くてピラミッドのように重々しいが、
見方によっては、今にも崩れそうな気配がする。
この気配については説明のし方がないので、
写真を見てもらう以外に手はない。

岐阜市の説明では。
(国内屈指の和傘の町、
文京の町として繁栄した稲葉郡加納町を象徴する建物で、
大正十五年(1926)に竣工。
京都帝国大学武田五一教授の設計。
構造・様式は「イスパニヤ式」手法を加味した鉄骨鉄筋コンクリートで、
耐震耐火構造、基礎工事は、「フーチング式」鉄筋コンクリート、
当時の最先端技術を駆使し、
旧岐阜県庁と共にデザイン感覚に優れた建造物として、
多くの専門家から高い評価を受けている。
同教授の手になる名和昆虫記念館、同博物館、
大垣市の旧浅沼銀行本店などは当地に縁も深く、
広く知られている。――後略――)(文化庁、他)

古かろうと役場であるからトイレくらいはあるだろうと思ったが、
残念ながら入り口はしまっていて中には入れそうにもない。
どんな立派な建造物もボクにとっては使えるトイレがないのでは、
何の役にもたたない。

しかたなく次へ向う。

(旧加納町役場)




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関取 鏡岩濱の助(旧中山道を歩く 251)

2011年07月01日 09時40分45秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(切通 4)の交差点)


(恵比寿神社)


(真宗寺)


(156号線と交差する)

(加納宿)
古い街を歩き、(切通4)の信号を横断し、
「恵比寿神社」、「親鸞聖人御旧蹟 真宗寺」を右に見て、
国道156号線を横断する。

約300mで細畑の一里塚が道路の両側にある。
民家が立て込んでいる中によく残ったものだ。
頂上には榎が植えられている。


(細畑の一里塚の北塚)


(一里塚の南塚)

少し歩くと延命地蔵堂があり、その前に道標の石標がある。
よく見ると、
「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」とあり、
普通は「左」の文字が入る所を、
石標に「左」を指差す「手」が彫られている。
「西京道 加納宿 凡八丁」
「明治九年一月建之 遠藤平左衛門」とある。
石標は意外に新しい。
「左方向へ」を「左」の文字でなく、
「手で指差す」新しい手法を取り入れたに違いない。
推測するに、作者の遠藤平左衛門さんは、
きっと新しい物が好きな方であったのでろう。


(追分の延命地蔵)


(延命地蔵菩薩の脇にある道標)


(指先で方向を示す道標)


(明治九年の文字)

ここで「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」、
「西京道 加納宿 凡八丁」と
「凡(およそ)」と書いたが、
どうも「凡」は「兀(こつ)」が正しいのではないか、
これは「まで」を意味する字で、
(笠松まで一里)(加納宿まで八丁)が正しいと言う意見がある。

どうもこれのほうが意味が通じやすいし、
文字そのものも「凡」よりは「兀」の方が解りやすいので、
これをとることにする。


(「凡」よりは「兀」が正しいと思われる。

ここから加納宿に入っていく。
名鉄「茶所駅」の踏切を渡るとすぐ左手に、
関取「鏡岩濱乃助」の碑があり、道標が立っている。

「ぶたれ坊と茶所」と題して、岐阜市教育委員会の案内板によると、
(この、ぶたれ坊と茶所は、
江戸時代の相撲力士「鏡岩濱乃助」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで、
力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて、
罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、
昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な街並みと地名に当時の様子を伝えていますが、
ここにあった妙壽寺は廃寺になり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い、
加納伏見町の妙泉寺に移されています。)とある。


(加納宿の碑)


(鏡岩の碑。右側に鏡岩山、左側に妙壽寺と彫ってある。)


ここにある道標には、(東海道いせ路)、(江戸木曽路)、
(京都 大阪 西国道)とあり、
横面には(天保十一年辛丑十一月 鏡岩濱乃助内建之)とある。
これを見ると、この道標は鏡岩が建てたものではなく、
鏡岩のカミサンが建てたものだ。
茶店を出して旅人に茶を振舞ったというから、
旅人が道をたびたび訊いたのだろう、
あんまり訊かれるものだから、
方向を書き込んだものを建てたに違いない。
カミサンも随分大変だったと見える。


(道標、鏡岩濱の助内と彫刻されている)


この鏡岩の碑の前で椅子に寄りかかって、
暖かい陽射しの中で、柔らかい寝息を立てながら、
お休みしているお年寄りがいた。
目の前で鏡岩の碑の写真を撮るのに、
頭の上でカメラを構えても目を覚まさなかった。
あまりにも気持ち良さそうな居眠りで、
写真にしたら絵に成るかと、
構えて撮ったが、腕が悪く良い写真にならなかった。
どんなアングルで撮ったら、
よい写真になったのだろうかと、
後になって悩んでいる。
どなたかご教授願えないものでしょうか?


話がそれてしまったが、話を戻すと、
鏡岩の碑から、中山道を少し進むと、
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形。


(だんごや)

(日溜りに気持ちよく昼寝のおじさん)














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切通し(旧中山道を歩く 250)

2011年06月25日 10時10分59秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(市民公園)


(境川の桜名所、1200本の桜があるという)


(境川に架かる那加橋)

(鵜沼宿5)
本日(2011/4/7)宿泊先の岐阜駅より名鉄で新加納駅下車。
晴天、本日も気温19℃の予想。


広い市民公園には暖かな日和に沢山の人が散歩や雑談に浮かれている。
公園の先は境川で、那加橋を渡る。
川の両側に植えられた桜の木は何本あるのだろうか。
とても美しい眺めで桜を愛でる人が歩く。
この先の信号(新加納町)で道路はY字路となる。

ここでは道を右にとり進むと突き当たりの形になって、
「新加納の一里塚」碑がある。
道路は直進と右への道に分かれるが、
ここでは直進の道をとる。
この辺りが「間(あい)の宿 新加納」である。
加納宿と鵜沼宿の間は17kmあり、
その中間に当る所に「間(あい)の宿」を置いたのである。

間の宿には本陣はなく御小休所つまり休憩所があった。
これを立場という。
一里塚の標柱右手にその休憩所はあったという。


(新加納町の信号、奥のほうでY字路を右へ)


(中山道の案内で安心)


(旧街道らしい雰囲気のある道)


(新加納の一里塚を左手のほうへ行く)

一里塚碑横を、直進した道はすぐ突き当たり、
正面は「今尾医院」があるが、
昔「御典医 今尾家」で、今は殿様のお抱え医師でなく、
庶民のための医院を営んでいる。
周りには古い由緒ありげな住宅があり、
表札を見ると皆「今尾」さんで、
このあたりは今尾さん一族が沢山いらっしゃるようだ。

医院の前で道標に従うと、「右折京道」である。
これは宿場の枡形で、100mも行かないうちにもう一度左折する。
正面に案内の矢印がある。


(正面突き当たりに昔「御典医 今尾家」今も医院)


(「御典医 今尾家」前の道標「右 京道」とある)


(「中山道左」の案内が上のほうにあり見落とし易い)

左折してすぐに善休寺入り口を示す石塔があり、
その先の奥にもう一箇所寺院があるが、
入り口がわからないので通り越す。
案内書によると小林寺のようだ。

周りは広々とした田園風景で、
先に高速道路の高架が見える。
東海北陸自動車道をくぐって道路は緩やかに右へカーブする。


(善休寺の石柱)


(東海北陸道の高架)


(街道らしい古い街並み右カーブ)

しばらく街道らしいふるい街並みを歩くと、
枡形をしたような場所に出て、さらにT字路に出る。
「切通」という。
中山道はここで右折する。

左側に道路をまたいで鳥居がある。 
手力尾神社の一の鳥居である。鳥居をくぐって左折すると、
50mほどで、やはり道路をまたぐ赤い鳥居、二の鳥居がある。
その奥に手力尾(てじからお)神社があり、桜の時期には祭礼があるところ、
今年(2011)は東日本大地震と大津波で、
東北地方に大勢の被災者があり、
日本国中、悲しみの中にある。
だから、この地方だけ祭りに浮かれていることは出来ないと、
祭礼は中止となった。
普段であれば、神輿も出て、
花火も大々的に打ち上げられるはずであった、
と米寿のお年寄りは仕方がないことと諦めていた。


(T字路、この左に鳥居が)


(鳥居と中山道の案内)


(鳥居の足元にある石標、京から見て左東京、善光寺)


(手力尾神社の赤い二の鳥居)

一の鳥居まで戻って中山道を進む。
鳥居の足元に石標があり、(左東京 善光寺)とある。
中山道は左手に境川と平行して進む。
さらに進むと右側に切通し陣屋跡があり、
切通の由来の説明がある。
(切通は境川北岸に位置し地名の由来は、
岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによるという。
      ――中略――
切通は古来東西交通の要路にあたり、
江戸初期中山道が開通されるや、
手力尾神社前から淨慶寺付近までは、
立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物や等が設けられ、
旅人の通行で賑いを見せ、
各地の文物が伝来し文化の向上に大きく貢献した。)とある。
この説明板の横に(中山道)の石碑がある。
その先に「市場山 淨慶寺」がある。


「市場山 淨慶寺」


(切通の由来案内)

少し行くと右手に伊豆神社があり、
手前に馬頭観世音菩薩の祠があり旅の安全を願っている。


(伊豆神社)


(馬頭観世音の祠)




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六軒の一里塚跡(旧中山道を歩く 249)

2011年06月20日 11時12分11秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鵜沼宿の石碑)

(鵜沼宿4)
復元された脇本陣で、
古きよき昔の時代を楽しんで、中山道を西に向う。
歩いている道路には「鵜沼宿街道」となっているので、
中山道を外れることはない。
途中左手に鵜沼宿の石碑があり、その先右手に
光雲山空安寺の石碑がある立派なお寺の前にに出る。

空安寺手前には、円形の古墳がある。
「衣裳塚古墳」といい、各務原市教育委員会の説明では、
(各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の古墳である。
墳丘の大きさは直径52m、高さ7mあり、
周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、
北側はよく原形をとどめています。
また墳丘表面には葺き石や埴輪は認められません。
「衣裳塚古墳」は、円墳としては県下一のものですが、
ここより南西約300mの所に、
県下第二の規模を持つ前方後円墳の
「坊の塚」が所在することや、
本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、
本古墳も本来前方後円墳のものが、
後世に前方部が削平されて、
後円部が円墳状に残された可能性もあります。
「衣裳塚古墳」の築造年代については、
本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、
正確な判定は出来ませんが
およそ古墳時代の前期から中期にかけて
(4世紀末~5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して
築造されたと考えらます。)とある。(各務原市教育委員会)
やや増長であるが、説明をそのまま書いた。


(空安寺)


(衣裳塚古墳)

鵜沼宿を出て左の木曽川の対岸には犬山城があり、
渓斎栄泉画く浮世絵「木曾海道69次之内(鵜沼ノ駅従犬山遠望)」には、
犬山城から木曽川が見事に描かれている。

鵜沼宿より加納宿まで凡そ17kmあるが、
中山道は、各務原を抜けていく水田地帯であったようだ。
今は右手には誘致された工場群に囲まれ、
左には何キロにも渡って航空自衛隊基地があり、
猛烈な爆音と共に発進するジェット戦闘機に驚かされた。

岐阜県は別名美濃というが、今歩いている各務原の各務野、
揖斐川上流の大野、そして大垣の青野と共に、
三つの野が「三野(みの)」となり、
これが「美濃」の語源となったと言う。

加納宿までの長い距離の間に特筆するものはなく、
距離を示す一里塚があり、街道に代わって走る鉄道がある。

中山道を進むと右手に津島神社がある。
この神社の拝殿は、村芝居を演じた
「皆楽座」の舞台になっているとの事。


(渓斎栄泉画 浮世絵 木曾海道「鵜沼の駅より犬山遠望」)


(津島神社)

先で国道21号線に合流する。
まもなくJR高山線を陸橋で越える。
今度は神明神社を右に見て交差点を渡ると、
長楽寺の太子像が赤いヅキンを被って、
旅の無事を祈っているようである。
さらに進むと右手は川崎重工の工場で、
その先にある名鉄を陸橋で越える。
この先Y字路を右に行く必要があることから、
ここでは道路の右手の階段を登り下る。


(高山線の陸橋、ここは自動車道で歩行者は脇の歩道橋で越える)


(右手の神明神社)


(信号渡った右側の長命寺の太子像)


(川崎重工先の陸橋)

先に進むとやがて案内標識で(直進は21号線大垣・岐阜、
右は各務原市街)とある信号を斜め右へ行く。
右に入った所の右側に「旧中山道六軒一里塚跡」の標柱があり、
江戸より103番目の一里塚跡である。
その先左手には「佛国山 竹林寺」の石柱がある。


(右 各務原市の案内看板)


(六軒の一里塚跡の標柱)


(左手の竹林寺の石柱)

市街地に入って周りをキョロキョロ見ながら歩くと、
右手に各務原市役所があり、
左手のバス停に「信長町」というのがあり、
しばらくすると市民公園にでる。

桜並木が美しい。

{本日(2011/4/6)名鉄高田橋駅からPM18:25発岐阜行に乗って帰る。
歩行数58273歩=約34kmであった。}


(二つ目の神明神社)


(「信長町」のバス停)


(美しい市民公園)





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復元された脇本陣(旧中山道を歩く 248)

2011年06月10日 10時27分03秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鵜沼宿脇本陣)

(鵜沼宿3)
街道の右手にある「鵜沼宿脇本陣」は、
各務原市が間取図を基に復元工事を行い、
脇本陣坂井家を復元したものである。
間取図が基本のため畳の高さまでの部分は、
忠実に再現されたと思われるが、
それ以上は想像の産物であるような気がする。

例えば屋根の部分、屋根には高々と「うだつ」が上がっているが、
「うだつ」は防火壁であるにもかかわらず、
地上まで防火壁が繋がっていない。
これではまるで飾りの「うだつ」である。

もっとも宿場に入る手前に、
「是より西尾州領」の石碑があったが、
尾張伝統の「はったり」、あるいは「みえっぱり」であって、
各務原市が、本気で「かざり」の「うだつ」をつけたのかもしれない。


(鵜沼宿脇本陣坂井家の「うだつ」)


(脇本陣の座敷)

何はともあれ、脇本陣坂井家には、
江戸の宗匠 芭蕉がよく宿泊したことで知られる。
それで門前に芭蕉句碑が三基見受けられる。

・汲溜の水泡たつや蝉の声
・ふく汁るも喰えば喰わせよきく之酒
 ・おくられつ送りつ果ては木曾の秋

の三句である。

夢も希望もない話であるが、
「芭蕉俳句集」(岩波文庫中村俊定 校注、芭蕉の俳句すべてを収録)を見ると、
第一句は、芭蕉の句であるかどうか疑わしく、
存疑の部に配置してあり、
二番目の句に至っては、間違って伝えられた誤伝の部にもなく、
どうも芭蕉の句では無さそう。
三番目の句、これは芭蕉の句に収録されており、
芭蕉の句に間違いない。


(芭蕉句碑)


(芭蕉が刻んだと言う木の化石、「ふく汁・・・」句が刻んである。)

中山道木曾谷の馬籠宿の一里塚近くに、

・おくられつ送りつ果ては木曾の穐   芭蕉翁

の句碑がある。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2010/09/post_ee74.html参照)
芭蕉が木曾で詠んだ句に違いない。

話は戻って、脇本陣の建物はとても綺麗でよく復元されているので、
上段の間やお手洗いなどゆっくりご覧になることをお勧めする。

脇本陣を出ると、
その西隣には、尾張二ノ宮神社がある。


(尾張 二ノ宮神社)




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古きよき街―鵜沼宿(旧中山道を歩く 247)

2011年06月02日 10時28分19秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(左側が地蔵堂を右折して出てきたところ)


(ここは中山道鵜沼宿、これよりうとう峠の石碑)

(鵜沼宿2)
赤坂の地蔵堂を右折すると、
左手に鵜沼東ふれあいセンターがある。
ここに昔は高札場があって、鵜沼宿の入り口に当る。

ふれあいセンターの向こう隣には、村社 赤坂神社がある。
地蔵堂が赤坂の地蔵堂と呼ばれる由縁である。

なお進むと広い通りと交差するが、ここは直進する。
出たところ左角を振り返ると、
(ここは中山道鵜沼宿 これより「うとう峠」)
の石標が建っている。
京都方面よりの道案内である。

信号を渡って直進すると、
大きな交叉点(鵜沼中山道)の信号に差し掛かる。
信号を渡った向こう側に「陣屋」と言う珈琲ショップがあり、
歩道脇に「是より西尾州領」の石碑がある。
鵜沼宿は、尾張藩の領地になっていた。
御三家の一つである尾張徳川家の領地は、
随分広大であったことがわかる。


(鵜沼中山道の交差点)


(陣屋と書いたコーヒーショップ)


(「是より西尾州領」の石碑)

さらに直進すると大安寺川にかかる大安寺橋を渡る。
橋の両袖に木製の常夜灯が置かれ、
風流にも柳の枝がそよいでいる。
その先左側に大垣城の古い鉄門がある。
人呼んで「安積門(あずみもん)」と言う。

各務原市教育委員会の説明によれば、
(当門は大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門(くろがねもん)で、
明治九年に払い下げられた後、
安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として、
維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。
各務原市へ寄付され、平成21年より当地に移築されました。
 
規模は、間口約5.7m、高さ約4.5mあり、
構造形式から高麗門と称されます。
高麗門とは、
左右二本の本柱上部に小振りな切妻造りの屋根を架け、
さらにその後方に控柱を立て、
本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、
主に城門として用いられました。

当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、
軒下を白漆喰で塗り籠めている点で、
これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられています。
          ――後略)

(大安寺橋北側)


(南側の端、柳が風情を出している)


(大垣城の鉄門=安積門)

その先右手に「中山道鵜沼宿町屋館」と称して、
中山道の旅籠屋を修復工事を経て、
登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されている。
親切なボランティアガイドが説明してくれるので、是非見学したい。

その斜め前に古いながらも良く手の行き届いた建物があるが、
菊川酒造本蔵で文化庁登録の有形文化財に指定されている。
造り酒屋の大きな樽でも中に置いてあるような建物である。

その右前に「中山道鵜沼宿脇本陣」が復元され建っている。
いずれも是非見学したい。


(復元された「中山道鵜沼宿町屋館」)


(その内部)


(菊川酒造の蔵)


(「中山道鵜沼宿脇本陣」)










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赤坂の地蔵堂(旧中山道を歩く 246)

2011年05月28日 11時24分56秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(日本ラインうぬまの森の石碑)


(中山道の案内)


(中山道脇の池)

(鵜沼宿1)
鵜沼の森の石碑を後にして、広い坂道を下ると、
右手に池がある。
この池に沿って右手にぐるっと回り込む。
池の終わる所に(中山道左)の案内がある。

中山道の案内書では、ここから道路は一気に下るとあるが、
案内通りに進むと道路は二手に分かれ、
両方とも下りになっている。


(左折の案内)


(道路はくだり二手に分かれる)

右に行くべきか左に行くべきか迷っていると、
10mほど先に一里塚を半分に切ったような、
土を盛り上げた場所があることに気づく。
近所の方が歩いていらっしゃったので、
「この土盛りはなんですか?」と尋ねると、
「昔から山があったところで、道路を作るのに、切り取った所です」と言う。

一里塚の片割れでないことを確かめて、さらに先に行くと、
もう一つ同じような土饅頭がある。
今度のは少し草も生えて古そうである。
下り坂を行くと、子供たちがあえぎながら道路を登って、
ボクとすれ違っていく。


(土饅頭をきったような土盛)


(草の生えた土盛、左手は住宅)

道路左側は住宅が並んでおり、
宅地造成で山を切り開いたのかと考えると、
中山道にはどうしても思えなくなってくる。

坂道を大分下ってきた。
右手の崖下のはるか向こうのほうに、
大きな道路で車が行き交うのが見える。
案内書では、右折すると国道に出て鵜沼宿に入るとあるから、
坂下の向こうの道に合流すだろうか?
心配になってくる。

かなりの急坂を登って、もとの道に戻るには
相当勇気が要る。
このまま下って、間違っても鵜沼宿へ行けばよいことと、
坂道をどんどん下っていくと、どこかで見かけた景色にでる。

赤坂の地蔵堂である。

その手前に(中山道は右)方向の案内が目に入る。
これで一安心。道路は間違っていなかった。


(赤坂の地蔵堂)


(選挙の看板が入ってしまった、中山道は右の案内)


(赤坂の地蔵堂を右へ)

中山道鵜沼宿のボランティアガイドに聞いた説明によると、
「この地蔵様は三回も交通事故に遭ったという。
しかし祠は壊れても不思議なことに、
地蔵様は壊れずに残ったと言う。
不思議なことが起こり、土地の古老により、
ありがたく世話をしてきた。
うとう峠を下りきったところにこの地蔵堂はあり、
この地蔵堂を西に直角に折れると、鵜沼宿に到達します。

安置されている地蔵さまには、
宝暦十三年(1763)・女人十二講中と刻まれております。
台座の左右には、左は江戸併(ならびに)せんこうじ(善光寺)、
右はさいしょみち(在所道)とあり、
道標として建てられたものと思われます。
江戸時代に東から急坂を下ってきた旅人や、
西から鵜沼宿を東の赤坂(*)・うとう坂へと旅した人たちは、
この地蔵にどんな願いをかけ、手を合わせて、
通りすぎて行ったのだろうか。」と語る。

(*)東の赤坂とは、この地蔵堂を(赤坂の地蔵堂)と言い、
鵜沼宿から西へ行くと赤坂宿があり、
これに対比して東の赤坂と言った。

中山道はここから西へ直角に折れ、
鵜沼東町ふれあいセンター前を通る。
このふれあいセンターがあったところに、
昔は高札場があった。

ここからが鵜沼宿になる。


(鵜沼東町ふれあいセンター、以前はここに高札場があった。)


(その隣の赤坂神社)






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うとう峠(旧中山道を歩く 245)

2011年05月23日 10時42分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(うとう峠への道)


(木橋を越えて)


(山の中の上り道)

(太田宿6)
旧中山道最後の山の中の土の道と言う。
案内看板に、
(ここから鵜沼宿まで大変急傾斜の危険な山道であった。)とある。

案内どおり山の中の上り道が続く。
木橋を越え、30℃ほどの傾斜道が、ウンザリするほど続いている。
やがてY字路にでる。登り道で下を見て歩くから、
周りが良く見えない。

Y字路の左は下り道で、先のほうに木に案内看板があって街道らしく感じる。
右手は相変わらずの登り道で、こちらには先のほうまで見渡しても、
案内など無さそうである。
左の下り道にすべきか、右の上り道にすべきか、
迷うところである。


(Y字路)

考えてみると、この道は「うとう峠」のある坂道である。
峠に出るまでは、とても下り道に入るはずがない。
そう思って右の上り道を行くことに決めた。
すると左手の木に小さな板切れに「中山道」と書いて、
右矢印があるではないか。

きっとここは迷いやすいから、
どなたか板切れに書いて針金で結わえたに違いない。
地元の行政の人が作ったとはとても思えないが、
いずれにせよありがたいことである。


(右矢印の「中山道」)

そこから少し登ると、山の中にしてはやや広い場所に出る。
右手には、東屋があり休憩できる。
広場の先の左手に「中山道 うとう峠」の看板があった。
ここがうとう坂の頂上であろう。

ここから中山道は石畳が敷いてある。
最近出来た石畳のようだ。
石畳に沿って今度は下ると、道路は二股になるが、
左手は土道、右手は石畳であるから中山道は右へ行く。
この場所の右手がややこんもりしている所を見ると、
どうやらここに一里塚があったらしい。
「うとう坂の一里塚」で江戸から100番目の、
記念すべき一里塚であったのに、
気が付かず通り過ぎてしまった。


(うとう峠)


(うとう峠ー遊びの広場の看板)


(二又道路、右がこんもりしている)

中山道はどんどん下って、左に丸太で作ったような木の家があり、
「センターハウス やまびこ もりの本屋さん」がある。
この場所は広場になっていて、建物の右隣にはお手洗いもあるので、
ここで用を済ませておこう。

広場の右手は、アスファルト道路で、その右手に住宅団地がある。
このアスファルト道路が、この先を行く中山道で、案内もある。

今来た道を振り返って見ると、石畳道が左手にあり、
右手には自然石に「日本ライン うぬまの森」と刻まれており、
桜の木が今や満開と咲き誇っていた。

これから先は、鵜沼宿である。


(丸太で出来た家)


(日本ラインうぬまの森)







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