中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

忠治が嫌った代官所(旧中山道を歩く71)

2005年11月13日 10時50分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(本陣跡の標柱)

(小林本陣の標柱。背景のお宅に小林の表札あり)



(新町宿6)
旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。
さらに進むと道路右側の橋の袂に、3DAYマーチ発祥の地の記念碑がある。
温井川の橋を渡ると、道路は二つに分かれるが、右側が旧中山道で案内板がある。

(3DAYマーチ発祥の碑)

(3DAyマーチの碑がおいてある一区画が整備されている)

(温井川を渡ると道は二股に分かれる、中央の白い建物の右側が旧中山道)

しばらくすると関越高速道路があり、ガードの手前に旧中山道の道標がある。

「左 倉賀野宿 4.4km。 右 新町宿 0.8km」とある。

(左 倉賀野4.4km、右 新町0.8kmの標柱の先ガードをくぐる)

ガードをくぐるとまた道は二手に分かれる。右の烏川の土手に登ると、
土手上はサイクリングロードになり、しばらく先のほうで
いずれ旧中山道と合流する。

ここでは左側の旧中山道をあるくと、道路は関越高速道路をくぐる
南側の道路と合流する。しばらくすると中島バス停があり、
左側に古い火の見櫓があるので、旧中山道は右折
(右側古川酒店の先で)するとサイクリングロードの土手にぶつかる。
その手前に左方に旧中山道の案内標識がある。

(左手の火の見櫓を右折する)


昔はここから舟渡しがあったが、今は無く土手を歩くと、
前方に橋が見える。

これが柳瀬橋で、今はここを渡る。

(柳瀬橋)

(岩鼻町の信号。左折すると旧中山道)

渡り終えた先に岩鼻町の信号があり、旧中山道は左折する。
しかしここでは直進し、すぐ左奥に観音寺が、さらにその裏手の
公園に岩鼻代官所跡があるので寄ってみたい。

ここは高崎市岩鼻町である。

観音寺は本堂が新しくなっていた。ここには初代代官のお墓があるというので訪れた。

(観音寺)

今までの経験では、訪ねた墓地で目当てのお墓を探すのは、
案内看板が無いかぎり、なかなか難しい。

お寺に入ろうとすると、孫の子守をしている女性に会ったので、気軽に声をかけた。

「このお寺に代官のお墓があるそうですが、
墓地のどの辺りにあるかご存知ですか?」聞いてみた。
「ハイ ありますよ。ご案内しましょう」と、
気軽に引き受けお寺の中に入っていく。

お寺の門をくぐると左手が墓地になっており、入ったすぐの中央に、
案内看板を背にした立派なお墓があった。
子守中とはいえ、女性に大変お手数をお掛けした事を
申し訳なく思い、丁重にお礼を述べた。

やはり、人にモノを尋ねるときは、自分で先に探してみて、
どうしても見つからないときに、尋ねるものだと反省しきり。
「覆水盆に還らず」の言葉通りであった。

(初代 岩鼻代官 吉川栄左衛門の墓)

話をもとに戻すが、お墓の案内によれば、

(高崎市史跡 「岩鼻代官 吉川栄左衛門貞寛の墓」
吉川栄左衛門貞寛は、江戸の人で出身地は相州中原村
(神奈川県)であり、祖先は代々御殿番を勤めた家柄である。

寛政三年(1791)幕命により近藤和四郎と共に上野国八郡の
幕府領(天領)の代官となり、岩鼻陣屋初代代官となる。

寛政五年(1793)岩鼻陣屋を落成。その後親しく岩鼻に住居し、
文化七年(1810)十一月十三日、六十九歳で病死するまで
十九年間代官の職にあり善政を行った。遺骸はこの墓に埋葬され、
菩提寺である江戸の今戸村慶養寺には遺物を葬ったと
「追悼碑」にある。

岩鼻代官については、初代吉川栄左衛門貞寛を始め良吏が多く、
伝えられている国定忠治の代官所への切り込みの話は、
全くの作り話である。)(高崎市教育委員会)

なるほど、博徒など日陰者にとっては善政を行った代官役人は、
目の上のたんこぶであったに違いない。国定忠治にとっては
憎たらしい代官であったろう。それが変じて悪代官になったのは
想像に難くない。

昔から「上州はかかあ殿下に空っ風」といわれるが、
山から吹き降ろしてくる風も強いが、女の鼻息も荒いという。
それは、上州では農家の養蚕や換金作物の栽培が盛んで、
女手ひとつで、一家を支えるだけの収入があったからと言われる。

自然男たちには暇が出来、金が出来るから遊ぶことになるが、
お金があって遊ぶとなれば、現代と違って飲む、打つ、買うになる。
当時の男達の代表的な三つの道楽である。

交通不便な田舎では、飲む酒にしてもさしておいしいものは
手に入らず、買うにしても女がそうそういるわけでも無い。
残す楽しみは、ばくちに血道をあげることだ。

博徒どもが横行するのにもってこいの土壌があったに違いない。
国定忠治については、海音寺潮五郎氏の面白い書き物があるので、
いずれ紹介したい。

元に話を戻そう。

お寺を出て裏手に回ると、広大な敷地に
「岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡」がある。
善政が行われた代官所も、幕末の動乱の中で崩壊する。
(慶応元年(1865)には木村甲斐守が関東郡代として着任し、
上野の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預かり所と武蔵国六国を支配し、
世直し一揆の鎮圧に江戸の北辺の守りの中心となる。
慶応4年(1868)岩鼻陣屋崩壊するや新政府は六月
岩鼻県を設置し、大音竜太郎を軍監兼当分知県事に任じ、
旧代官所跡が岩鼻県庁となり、旧代官所時代とほぼ一致地域を支配した。
また明治二年(1869)には、吉井藩を併合した。
明治4年(1871)十月二十八日岩鼻県は廃止され、
第一次群馬県が成立し、県庁は高崎城内に移された。)
と案内にある。(高崎市教育委員会)

岩鼻町の交差点に戻り、旧中山道を進むと倉賀野宿だ。

(岩鼻代官所跡)

(広大な敷地)

(広大な敷地、別の角度から)