(案内標識を見て右の道を行く)
(沓掛宿)
旧軽井沢銀座を過ぎて前方に道路案内板が見える。
右方向が旧中山道とある。案内に従って進むと、道路の左右には別荘が並び、
深いから松の林になっている。道路は緩やかな下り勾配が続く。
碓氷峠に向かって、高崎から登り道路であった。
そして碓氷峠を過ぎると道路は下りになっているが、
この下りは一体何処まで続くのだろうか?
(下り勾配の唐松林の中を行く)
道路は右に左に緩やかにカーブを描き、深い森の中を進んでいる。
時々、男女が並ぶ道祖神を確認できるくらいで、特段お伝えする史跡も無い。
右側に見える小高い離山の裾を歩いている。
やがて国道と合流し、左側のしなの鉄道と平行して進む。
(信濃に入ってはじめて見る男女の道祖神、気のせいかやさしい表情)
(林の切れ間から覗く離山)
やがて中学校前の信号があり、ここで旧中山道は左折し、
しなの鉄道の踏み切りを渡る。最初の角を右折し道なりに進むと、
左側に川の流れが見え、橋を渡る。道路は川沿いにあり、しなの鉄道をくぐることになるが、
くぐる前に線路沿いを左折し、すこし坂を上ると道路脇に墓石群があり、
その端に、
「旧中仙道 宮乃前一里塚」(裏面に昭和49年)
と刻んだ石塔が建っている。
昔はこの一里塚前に中山道があったと思われるが、今ははしなの鉄道に遮られている。
(中学校前の信号、ここを左折踏切を渡る)
(上を走るのが、しなの鉄道、手前を左折する。一里塚を見たらここまで戻り直進する。)
(墓石群の中にある一里塚の石碑)
(一里塚の石碑、「宮乃前一里塚」と読める)
坂を戻って、しなの鉄道をくぐり川沿いに歩くと、国道に出る。
国道のすぐ右側、橋のたもとの道路脇に、長倉神社の石の鳥居と芝生の中に置いた石の一団が見える。
石群の中に道祖神があり鳥居をくぐって橋を渡ると、神社の広い境内に入る。
正面に神社はあるが、境内は長倉公園といい、神社の裏側はかなり広い。
本殿の左奥のほうに、長谷川伸作「沓掛時次郎」の碑がある。
沓掛宿の名を全国に有名にしたのはこの石碑と言う。
(長倉神社の鳥居)
(しめ縄をつけた道祖神)
(本殿を背に鳥居方向を撮る)
(奥に見えるのが神社の本殿、この左奥に沓掛時次郎碑がある。)
(沓掛時次郎を書いた長谷川伸の書になる石碑)
石碑には、
「千両万両枉(ま)げない意地も
人情からめば弱くなる
浅間三筋の煙りのもとで男 沓掛時次郎
長谷川伸 書」
(流行歌の一節が書かれている。
剣をとっては滅法強いが、義理と人情にはからきし弱い、男沓掛時次郎は、
中仙道街道筋の古い宿場、火の浅間に抱かれた「くつかけ」を背景に
作家長谷川伸(1884~1963)の筆によって生み出された架空の人物である。
「沓掛」は「中軽井沢」と言う名に変わったが、沓掛宿を偲ぶよすがとなろう。)とある。(沓掛商工会)
思えば、亡くなった母が映画好きで、4~5歳のころ母に手を引かれて、よく映画を見に行った。
映画の中には、片岡知恵蔵、大河内伝次郎、長谷川一夫などの俳優が演じる、
やくざ渡世の人情ものがあったが、林長次郎(長谷川一夫)演じる「沓掛時次郎」が記憶の中にある。
沓掛が土地の名前であることを知ったのは後のことである。
半世紀を越す、ずいぶん昔の話だ。そんなことを思いながら長倉神社を後にする。
「沓掛」の地名は、今は「中軽井沢」と名前を変えており、
「沓掛」の名残を残すのは、この沓掛時次郎の碑だけという。
その沓掛時次郎さえ知る人も少なくなった。
(中軽井沢の駅前)