(岩村田の商店街)
(岩村田宿2)
岩村田は内藤家一万五千石の城下町であった。
旅人は城下町を好まなかったのか、本陣脇本陣はなく旅籠も少なかった。
しかしこの近辺の経済の中心地として、現在も商店街が活動している。
街道の右手に見えた大きなお寺は、西念寺といい、
内藤家の菩提寺で、七代目岩村田城主 内藤美濃守正国のお墓がある。
(西念寺)
また小諸城主 仙石権兵衛秀久のお墓もあるという。
仙石権兵衛は出府しての帰りに埼玉県鴻巣市で発病し、亡くなっており、
鴻巣市の勝願寺に分骨されお墓が残っている。(旧中山道を歩く 43を参照願います)
また、仙石権兵衛の本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。
その西念寺は龍雲寺と同じく由緒ありげな厳かな雰囲気のお寺である。
本堂といい、鐘楼といい、山門といい、どれをとっても凛としている。
信濃に有るお寺はみんなこんな雰囲気を併せ持っている。
(西念寺の山門)
(鐘楼)
(山門から見た本堂)
中山道に戻って商店街を抜けると、相生町の信号に出るのでこれを右折する。
すぐ小海線の踏切を渡ると、右側に「西宮神社」があり、
踏切には中仙道踏切と書いてあるので、道を間違うことはない。
(相生町の信号、ここを左折)
(中仙道踏み切り)
(西宮神社)
すぐ左側の万年塀脇に道祖神の石碑が三基並び、その先の左側に八幡神社がみえる。
中央に神社、手前の境内には石造群が並ぶ。石には月神尊、庚申、妙見尊などと刻まれている。
(万年塀脇の道祖神)
(八幡神社)
(八幡神社境内の石造群)
中仙道を進むと、道路は右手の岩村田高校、左手の浅間総合病院を過ぎると、
田んぼ道で日陰になるところはない。
やがて道路正面に「相生の松」の史跡がある。
相生の松は日本のいたるところに在り、縁結び、和合、長寿の象徴とされる。
またここにある石碑には、
「其むかし 業平あそんの尋ねけん おとこ女の松の千とせを 」の歌が彫られている。
(相生の松)
何よりもこの「相生の松」を有名にしたのは、
皇女和宮が下向のおり、休憩された場所であることだ。
皇女和宮東向の行程表(板橋区教育委員会の資料による)では、
前日宿泊した八幡宿を出発し、午前の休憩を「相生の松」で、
昼食を小田井宿で、その日は沓掛宿に宿泊された。
八幡から岩村田まで約8kmあり、
岩村田から沓掛まで14kmあって、
一日22km進んだことになる。
(稲荷神社)
「相生の松」から中山道は直角に右に折れる。
しばらくは田んぼの中の道をテクテク歩く。
右手に稲荷神社があり、そこからしばらく歩いて、
やがて左側に定額名覚山妙楽寺というお寺がある。
佐久観光協会によれば、
(妙楽寺は貞観八年(866)「信濃の国五ヶ寺を定額(*1)に列する」と
日本国史に明記されてある信濃五山(*2)の一寺に当たる。
妙楽寺では一月八日、薬師如来を本尊に蘇民将来を祈願する法要を
千年以上今日まで執り行っています。)とある。
(*1)定額(じょうがく)とは、延暦二年(783)以降朝廷が定めた官寺であり、官稲などが給されるお寺を言う。
(*2)信濃五山は伊那郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺の五ヶ寺をいう。
妙楽寺の参道入り口の木柱に「佐久の蘇民寺」と書いてある。
しかも(毎年1月8日には蘇民将来を祈願する法要を千年以上執り行っている。)
の記述には驚かされる。百年ならまだしも千年の歴史ある
祈願法要とはどんなものであろうか?
「定額」といい「蘇民寺」といい仏教には解からない言葉が多い。
それともボク自身無教養ということか?
蘇民将来について次回につづく
(定額 名覚山妙楽寺、右側に蘇民寺の字が見える)