中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

古峠(旧中山道を歩く 141)

2008年07月26日 08時51分00秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(水路のトンネルの横を行く旧道)

(和田宿 10)
旧街道を歩くにはそれなりの楽しみがある。
まず、土地の方とのふれあい。
その二、大自然の中をよい空気を吸って緑の中を歩けること。
その三、往時の史跡に出会え、旅人の気持ちに浸れること。

それにしても、今歩いている旧中山道には、案内表示がシッカリしているが、
昔の人は案内表示もなく、
迷わずに中山道をどのように歩いたのであろうか?不思議に思う。
次の一里塚、次の一里塚を目指したのであろうか?


(東餅屋を出てすぐの旧道入り口)

東餅屋を後に国道を少し歩くと、すぐに草の生えた道へ入る
ブルーの案内看板が目に入る。道路をまたいだ向こう側である。
その道に入るや、急坂で登ると下りになり、こんどは道路をくぐるトンネル(?)になる。
トンネルというよりは、水路である。水路を利用した道で、
水路の横に路があるという感じ。

これこそ「百聞は一見にしかず」 写真をご覧ください。


(水路の横にある旧道)


(トンネルの中)


(トンネルの出口付近)

こんな道は昔は無かったに違いない。
水があふれ、道は水浸しになって歩行も困難であったに違いない。
水が上手く抜けるようにトンネルを作り脇に道を造ったのは、
きっと、つい最近のことに違いない。
あるいは、この水路の上に土を盛り、
新しい道路を造ったのかもしれない。

トンネルを出ると急な登りで、また下ると道路の斜め向こう側に
旧街道の案内のブルーの看板が見える。
また上り下りして、ビーナスラインを二回横断した後に、
今まで登ってきた道筋のわかりやすい地図がある。
その先でまたいだビーナスラインが最後で急な階段を上がり、
急な坂を上りきると峠に到着する。
一気に書いたが上り勾配が急なこと、最後のひと踏ん張りが必要である。


(道路を横断して向こう側にある旧道入り口)


(旧道入り口2)


(旧道入り口3)


(今まで来た旧道の地図)

峠には、お地蔵様や本尊大日大聖不動明王、御嶽山坐王大権現、
馬頭観音などの碑が建立されており正面が開けている。
天候に恵まれれば、御嶽山が見えるはずであるが、
残念ながら曇り空で眺めることが出来なかった。
左側は小高い山になっており、
その山の上に御嶽山遥拝所があるというが、
今までの急坂でこれ以上登る勇気も持ち合わさなかった。
何より曇り空で、上まで登っても回りに見えるのは雲ばかりと予想が付いて登る気にならなかった。


(峠の地蔵様)


(御嶽山大権現の碑)


(大日大聖不動明王の碑)

ここを古峠という。

説明によれば、
「中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や、
一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の行き来などで賑わいを見せた峠である。
頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。
冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、
冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
 明治九年(1876)東餅屋から
旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る
紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、
古峠の名を残すのみとなった。」(文化庁 長野県 和田村)

「和田宿は江戸板橋宿から28番目の宿場である。
宿成立以前から人家のあった中町・下町を中心に上町が、
さらに周辺の雨原・細尾・鍛冶足・久保などから人を集めて宿を形成し、
さらに・・・以下中略。
宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、
参勤交代で中山道を通行する34家の大名や、
一般旅行者が休泊する場所でもあった。」(文化庁  長野県 和田村)

和田宿から下諏訪宿まで中山道随一の長丁場で、
しかも登り2里半、下り二里半という和田峠の難所を控え
宿場の苦労は並大抵ではなかったようである。
(同じような立地にある馬篭宿について島崎藤村の
「夜明け前」に詳しく記されている。)

この古峠からは下諏訪宿となり、山道は下りとなる。


(古峠に咲いていた桜に似た花、名前がわからない)


(古峠からすぐの下り道路)