中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「是より北 木曽路」の碑と翁塚(旧中山道を歩く 209)

2010年09月01日 10時42分48秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)

(馬籠宿 5)
小公園を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。

「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。

芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。


(芭蕉翁の句碑)


(「蝿」と読める翁塚)

「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせお

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。

のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。

最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・

(また、芭蕉俳句集に寄れば、

・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋

とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。

この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。


(「是より北 木曽路」の碑)


(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)

木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。

句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、

新茶屋の一里塚という。

江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。

この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。


(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)


(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)


(一里塚先から始まる「落合の石畳」)