(琵琶峠入口)
(琵琶峠の石畳)
(大湫宿 2)
左の大湫病院を過ぎると、右側に石畳の脇道がある。
脇道には「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。
ここにある琵琶峠の石畳の石は、大小さまざまで、
凸凹して歩くものにはとても歩きにくい。
これが本来の石畳だと言うことが良く判る。
十三峠を過ぎて、また峠があり、
中山道は本当に山の中である。
(大田蜀山人・壬戊紀行)のよれば、
(これより坂を下ること十町ばかり、山には幾つとなく、
長櫃(ながびつ)の如きもの俵の如きもの数を知らず)といわれたように、
この石畳に敷いてある石の大きさの差は甚だ大きい。
この石畳について(岐阜県教育委員会・瑞浪市教育委員会)の説明によれば、
(中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより
江戸時代当時の原状を残す所が少なくなっています。
こうした中で、瑞浪市内の釜戸町・大湫町・日吉町にまたがる
約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、
よく原形を保っています。
特に琵琶峠を中心とする約1kmは、
八瀬沢の一里塚や馬頭観音などが現存し、
当時の面影を残しています。
昭和45年(1970)には500m以上にわたる石畳も確認され、
峠を開削したときのノミの跡を持つ岩や
土留め(どどめ)・側溝なども残されています。
歴史の道整備活用推進事業の一環として、
平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、
江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。)とある。
大きな石畳の上を歩く人にとって、歩きやすいのは背の高い人、
ボクのように短足の持ち主にとっては、歩き難いことこの上も無い。
石畳は標高558mある峠まであり、かなり苦しい。
やっと登った峠には峠の馬頭観音様と皇女和宮の歌碑が並んで建っている。
馬頭観音様は旅の安全を願って、街道の苦しい場所に置いてある。
和宮様の御歌は、
・住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび
と読める。
和宮様の歌は一貫して、ふるさとの京都を思い、
「江戸に下るのは国民のためで、私はいやいや行くのよ」と言う、
想いがにじみ出ている。
(杉林と石畳)
(落ち葉と石畳)
(石畳の頂上付近)
(琵琶峠頂上の観音様と和宮歌碑)
(八瀬沢の一里塚)
少し進むと石畳両側に一里塚が見えてくる。
八瀬沢の一里塚である。
東京から91番目の塚で、両側の塚はほぼ完全な形で残っている。
その先も歩きにくい石畳を下っていくと、アスファルトの道路にぶつかる。
手前左手に「お手洗い」が設置されているので、利用していこう。
アスファルト道路もこの石畳のあるところだけは、石畳を敷いてあり、
石畳はこの先も続いていることを示している。
先を覗けば、枯葉が覆いかぶさった道路が見えるが、
枯葉の下はごつごつした石が敷いてあるに違いない。
しばらく下ると先が開けてきて、坂の下に民家が見えてくる。
案内書では民家の前を過ぎてなどとあるように、
民家の庭先のような所を過ぎて、広い通りに出る。
出る手前に、「琵琶峠西上り口」の石碑があり、
琵琶峠はここで終わる。
(アスファルト道路も石畳の跡を残して)
(民家の庭先へ)
(庭先を通過して出たところに石碑がある)
(琵琶峠の石碑)
歩きやすいアスファルトの道を行くと、
すぐニワトリのオス・メスの鳴き声が聞こえてくる。
道路は登り坂になっているが、その途中右側に三棟の鶏舎がある。
卵採取が目的なのか、食肉専門の養鶏所なのか、分からない。
その先で道路は二手に分かれるが左手を行く。
登り坂を苦しみながら歩くと、
今度は犬の鳴き声が、しきりに聞こえてくる。
恐ろしいような鳴き声、甘えるような鳴き声、
空腹だから何かよこせとでもいうような、
入り混じった鳴声が身近に聞こえてくる。
左手に瀟洒な建物、右手に公園の入口のような建物が建っており、
「公認訓練所」、「株式会社 国際犬訓練所」の看板が目に入る。
金網に仕切られているが、大きな犬が今にも襲ってきそうな気配に、
動物嫌いのボクはわき目も振らず先を急ぐ。
(国際犬訓練所)
道路はどんどん登り坂で、やがて右手に、
雪国にありがちの屋根付きバス停が目に付く。
バス停の向こう側に大きな杉の木が生えており、
根元にお地蔵様が建っている。
バス停は「天神前」で、お地蔵さんは「天神辻の地蔵尊」という。
昔の人たちが、山の中の難儀な旅の安全を願って立てたのであろう。
(天神前バス停)
(天神辻の地蔵尊)
(紅葉真っ盛り)
道筋は、時あたかも紅葉の真っ盛りでとても美しい中を進んでいく。
まもなく、大きな養鶏場を左に見て進むと、焼き坂の馬頭様が右にあり、
登り坂をいくと右手に池が見えてくる。
「弁財天の池」である。
(大きな養鶏場入口)
(焼坂の馬頭様)
(旧中山道の案内)