中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

垂井宿(旧中山道を歩く 271)

2011年10月05日 10時47分25秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(垂井宿入り口の相川橋、「東の見付」から)


(垂井宿2)
20011/6/8、雨のち曇り、最高気温24℃の予定。
JR垂井駅を降りて、人足渡しだった相川橋の中山道をスタート。
すぐ左手に東町用心井戸がある。

昔は、どの宿場でも同じように、木造家屋の建築では、
大火事に見舞われることがしばしばであった。
用心のために、火の神様(浅間神社)を祀ったり、
隣家よりの類焼を防ぐために卯建(うだつ)をあげたり、
天水桶に水を張って門口に置いたり、消防団を結成したりなどなど、
防火の準備はそれぞれ行っていた。

垂井宿では防火井戸を用意した。
石組みも立派で、覘いてみると今でも水がみなぎり、
深さも2~3メートルと手ごろな防火井戸です。

(ここ垂井宿では、たびたびの大火に襲われ、
渇水期でも消火用水を確保するために、
西、中、東町にそれぞれ一箇所、
用心井戸を作りました。
ここにあるのは、その内の一つ、
東町の用心井戸です。)(垂井宿観光協会)とある。


(防火のための用心井戸)

道路はこの先で少し右へ曲がると、
その先は道路が突き当たりのように見えます。
突き当たりは旅籠(はたご)亀丸屋で、
今でも営業を続けている。
亀丸屋で道路は鉤の手になっている。


(突き当りが亀丸屋)


(亀丸屋の前が枡形になっているのが判る)

(旅籠亀丸屋西村家は、垂井宿の旅籠屋として、
二百年ほど続き、今なお、当時の姿を残して営業している
貴重な旅籠である。
安永6年(1777)に建てられた間口五間・奥行き六.五間の母屋と離れに、
上段の間を含む八畳間が三つあり、
浪花講・文明講の指定宿(*)でもあった。
当時は南側に入り口があり、
二階には、鉄砲窓が残る珍しい造りである。)(垂井町)とある。

県内の中山道で、江戸時代から営業を続けている二軒の中の一軒というが、
もう一軒とは、細久手宿の大黒屋である。(2011年6月現在)

(*)筆者注:浪花講=お伊勢参りに集まった講、
      文明講については不明です。
昔は飯炊き女(女郎)を置いたいかがわしい旅館が多かったのに、
そうではない本来の宿泊を目的としたまじめな旅館を意味する指定旅館を指した。

鉤の手を進むと左に垂井宿の問屋がある。
垂井町の説明によれば、
(間口 5.5間、奥行7.5間の金岩家は、
代々弥一衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を務めた。
問屋には年寄、帳付、馬指、人即指などがいて、
荷物の運送を取り仕きり、
相川の人足渡の手配をしていた。
当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、
常備の25人25匹の人馬で送っていた。
大通行が幕末になると荷物が多くなり、
助郷の人馬を借りて運送した。)とある。


(垂井宿の問屋跡)

垂井宿の中山道は古い家が残っている。
先へ進むと、右手に妻入りの古い家があり、宿場らしい家並みが続く。
左手に本陣跡の石碑があり、その奥は医院になっている。
街道の役目を終わった本陣は、家の造りが大きかったので、
明治維新後、地方郵便局や、地方警察の分署、小学校等に使われた。

ここ垂井宿の本陣は、
(――前略――垂井宿の本陣職を務めた栗田家は、酒造業を営んでいました。
本陣の建物は、安永九年(1780)に焼失しましたが後に再建され,
(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。)(垂井町)とある。


(宿場に残る古い家)


(宿場に残る古い家2)


(垂井宿の本陣跡)

中山道は、その先左手に
「正一位中山 金山彦大神」の金文字の額が掲げられた石の大鳥居が、
脇に二基の常夜灯を置いて建っている。
右手の常夜灯の前に、用心井戸があった場所らしく、
今は不要のため蓋で閉じてある。西町の用心井戸であろう。

この鳥居の下をくぐって左折すると、
右手に玉泉禅寺の石柱があり、そのすぐ先に「垂井の泉」の看板がある。
玉泉禅寺の門前に「垂井の泉」があると言ったほうが解りやすい。


(石の大鳥居)


(常夜灯の前に蓋をしてある用心井戸)


(玉泉禅寺の山門前、左に見えるケヤキ)