春やんがよく言っていた。
「歴史というのは年表を覚えるのと違う。年表の裏にあることを語る、喋らんとあかん! 歴史みたいなもん語ってなんぼや! 喋ったもの勝ちや!」
学問としての歴史学は、古文書・記録・史書などの文献史料を読んで、一つの歴史像を構成することにある。
春やんは、文献資料など関係なしに、一つの歴史像を構成してしまう。
それが出来たのは、喜志村という舞台があったからだ。
「ええか、歴史というのは、その当時の地理を頭に入れて考えんとあかん」
喜志村という地理を舞台にして、楠正成を、吉田松陰を、関係する人々を動かす演出家、監督だったのだ。
学校で習う日本史は政治史の色合いが濃い。
そのため、庶民が出てくることは少ないし、文化や信仰は貴族や武士、僧侶のものだ。
庶民の文化や信仰に光があてられたのは、1914年(大正3)に柳田国男らによって日本民俗学が創始されてからだ。
たかだか100年足らず。日本史学が文献だけでなく、絵画や文学、遺跡や遺物、民俗行事、地図や地名などを参考にしだしたのは最近のことである。
しかし、春やんの歴史観は元から民俗学の色合いが濃い。
だから、日本史からすれば奇想天外だが、その地で生活している名もない庶民の文化や信仰がある。
あるとき、春やんにたずねた。
「明治時代と江戸時代は、どっちがよかったと思う?」
「そら江戸時代や! 明治になってから歴史に大きな穴が空いてしまいよった!」
廃仏毀釈でお寺の歴史が散逸し、神社を中心とする臣民教育で土着的な伝統芸能が否定された。
戦後になって神社による統制がなくなると、軍事的なものの排除(神社に非は無いが)からか、明治から戦前のことに関しては記録が表に出てこない。
歴史、民俗学者も、および腰になって歴史の空白を埋めようとしない。
ましてや、小さな神社仏閣は個人営業でもあるから詳しいことはわからなくなる。
「ええか、歴史をつくったんは信長でも秀吉でもない! わしら一般庶民や! せやから、わしみたいなオッサンが語る歴史こそが本真もんや!」
そう豪語した春やんの歴史の話は「歴史36/祭りじゃ俄じゃ」で終わる。
とはいえ、春やんが残してくれた「覚書帖」がある。
その中には、紫式部や家康や龍馬が喜志村に来ている。
「春やん、なんぼなんでも無理があるんとちがうか!」
「あったれ! そんなんもん喋ったもの勝ちや!」
というわけで、タイトルは「あとがき」としたが、「中締め」に変更する。
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