悪性の風邪がはやったとき、村人が総出で囃し立て、疫病をもたらす風邪の神を村から追い払うという風習があった(風の神送り)。それを題材にした〈狂言俄〉を紹介する(『古今俄選』より)。
能狂言の言葉で。
男 「まかり出でたるそれがしは、この辺りの者でござる。殊の外悪い風邪がはやって、人々を悩ましておる。人のために、賑やかに囃し立て、風の神を送ろうと存ずる」
ドラと太鼓の鳴り物 ドンデンドン・・・
男 「風の神送ろ」
ドンデンドン
男 「風の神送ろ」
ドンデンドン
風の神がよろつきながら出てくる。
風の神「こりゃかなわんワイ。逃げるが先じゃ」
風の神が向こうへ逃げようとすると、後ろから大勢の医者が出てきて、
医者「行ってはならん。行ってはならん。行くまいぞ。やるまいぞ」
『諸艶大鑑』巻七(井原西鶴)の中の風の神送りの挿絵
民俗学者の西角井正大氏が『祭礼と風流』の「祭礼のにわか」の中で、建水分神社(たけみくまり神社=千早赤阪村)の祭りで演じられる〈にわか〉について書かれた稿がある。
――河内平野は、念仏信仰の盛んな土地で、江戸時代には相当繁栄したらしく、大ヶ塚の豪商河内屋可正の記した元禄の頃の記録には、謡曲・能・狂言の興業が詳しく書かれているというし、その他の旧記にも歌舞伎・操り人形などの芸能も盛んだったと見えるという。また、素人の物真似狂言も多かったというから、すでに十八世紀中葉の正徳・享保ごろの住吉・祇園・今宮などの祭礼の流し俄の風が、この南河内地方の祭礼にも取り入れられていたことが考えられよう――。
河内屋可正(壺井五兵衞)は、富田林市喜志村から石川をはさんだ東の対岸、葛城山のふもとにある大ヶ塚の人で、自身の体験、見聞や処世訓をつづった『河内屋可正旧記』を残している。元禄期(1688~)の庶民資料として貴重な書である。
「我が身の若やの衰へをすくふべき芸能を仕習ふべき事也」と、芸能をたんなる余技としてではなく、健康のため、生活と一体としたものと考えていた。その芸能が能楽の謡曲(うたい)で、一流の能役者と一緒に演じるほどであったという。富田林寺内町の杉山家をはじめとする人々とも親交があり、共に催した興業はかなりの数にのぼる。南河内に能や狂言などの芸能を広めた人物である。
可正の広めた芸能の影響がいかに大きかったかは、富田林の富豪杉山家の記録『万留帳』に記されている。諸事全般を記した覚え書きで、『可正旧記』のあとをうけるように宝永六年(1709)から寛保三年(1743)までの五十年間にわたって書かれている。大阪俄が発生した享保末〔1730年頃〕と同時期のもので、そこに書かれた21回の興業の中には、能・狂言だけではなく浄瑠璃・講釈(講談)もある。
引用にある「物真似狂言」とは、舞踊中心だったものが演劇(芝居)化していく過程の歌舞伎である。先の「惣谷狂言」でいう「歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたち」のものである。
歌舞伎の興行については、『可正旧記』とは別に『河内屋年代記』があり、それに書かれた能・歌舞伎興行の記録の古いものには、豊臣秀吉在世中の文禄年間(1590年代)に、広瀬河原(川面の浜近く)で勧進能が興行されたとある。また、慶長年間(1600年前後)に、同じ場所で女歌舞伎が興行されている。
『可正旧記』には「芝居興行有し覚」として、明暦二年(一六五六)から元禄二年(一六八九)まで六回の歌舞伎興行が記されている。元禄三年以降は大阪奉行から旅芝居の御法度(禁止令)が出たために記されていない。とはいえ、女歌舞伎から若衆歌舞伎と御法度を乗り越えてきたのだから、役人の目を盗んでの興業は続いいていたであろうし、数奇者たちの「素人の物真似歌舞伎」も催されたに違いない。
大阪俄発祥以前から、素人の〈河内にわか〉らしき芸能が存在していたことがわかる。
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