歴史カデゴリーの『その16 室町――【番外編】』で、能楽師の世阿弥と一休和尚の話を書いた。
今一度そのときの「春やんの楠家系図」を示す。
伊賀上野の上嶋家本『観世系図』に、能楽の観阿弥の母は〈河内国玉櫛庄 橘入道正遠の女〉とある。
この〈橘入道正遠〉という人物は、『尊卑分脈』の楠家系図によれば楠正成の父の正遠である。
とすれば、正遠の女(娘)は正成の妹ということになり、観阿弥は楠正成の甥にあたることになる。
だとすれば、すでにその当時から、南河内では能・狂言を見る機会があったのかもしれない。
南朝と縁の深い大塔村に惣谷狂言が残っているのもなんらかの因縁が感じられる。
当時の狂言は、一字一句もセリフを間違えてはいけない現代の狂言とは大きく違っていた。
まだ台本が存在せず、おおまかな筋立てをもとに、大部分をアドリブで演じていたようである。つまり、「にわか」である。
狂言に接する機会が多かった南河内の民衆が、狂言をまねて一座の余興にしていたことは容易に想像できる。
狂言の扮装をした、八幡大名と太郎冠者による〈大名俄・狂言俄〉はかなり流行したのだろう。
十五年ほど経った頃に次のような俄がある。
〇
大名「まかり出でたる者はかくれもなき大名と・・・」
と、言っているところに奴さんの扮装をした家来が、箒(ほうき)で大名を掃き出しながら、大声で、
家来「大名はもう古い」
〇
大名「まかりいれたる某(それがし)は・・・と、名をなのりたけれども、大名俄はもう古くなったゆえ」
と言って、三味線の調子に合わせて、「まかりいれたる某は、まかりいれたる某は・・」と踊って行く。
後者の俄は文章にするとおかしくもなんともないが、その踊りが滑稽だったようだ。『古今俄選』の作者は「誠に当世の粋(すい)」とほめている。
東京の「粋(イキ)は見た目のかっこよさを言うが、大阪の「粋(すい)」は何となく感心する行動のことだ。
上方落語のマクラに粋な話がある。
ある大きな店の旦那さん、高野山の便所に入ったら気持ちが良かった。
文字通りカワヤ(厠)と言って川に突き出した板が渡され、出たものは下に落ちていくし、風が吹いてきてお尻をなぜる。臭いも無く、いたって気持ちが良い。
それから四、五日して、その旦那さんの家の脇を通ると、道行く人が、
「気をつけや。時々クソが降ってくるで」
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