奈良県大塔村(現五條市大塔町)の天神社に「惣谷(そうたに)狂言」という郷土芸能のがある。
文化庁『篠原踊・調査報告書』には、復活の当初からこの狂言を三度にわたり調査した民俗学者の本田安次氏の言葉を引用している。
――惣谷狂言はもと、能の間々ではなく、風流踊りの間に行われてきた狂言である。後に歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたちを伝えたものである――。
※「風流踊(ふりゅうおどり)」とは、中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである(ウィキペディアより引用)。広い意味での〈にわか〉の一種。
歌舞伎がどのように変化したかを簡単にまとめると、
①江戸時代の初め頃(17世紀初め)出雲の阿国という女性が演じる〈かぶき踊り=女歌舞伎〉が京で人気を集める……禁止令
②少年たちによって演じられていた〈若衆歌舞伎〉が人気を集める……禁止令
③成人男性による〈野郎歌舞伎〉から現在の歌舞伎になる。
①から③に変化する間に〈踊り〉から〈芝居〉へと徐々に演劇化していった。
本田がいう「歌舞伎狂言に展開していくその直前のかたち」とは、「野郎歌舞伎よりも前に、ある地域に存在した芝居仕立ての民族芸能」ということである。
惣谷狂言の中には〈にわか〉そのものと言えるものがある。
「鐘引狂言」……長崎へ商いに下る夫を見送った妻が、早速、坊主を引き入れて酒宴にひたる。そこへ、突然夫が帰宅する。妻は慌てふためいて鐘の中に坊主を隠したので、間男を見つけそこなった夫が「隣の豆盗人また失せよった」。 ※豆=女性の隠語
「舟こぎ狂言」……東に下る僧、茶屋に雨宿りするが茶代も払えない。それでも渡し舟に乗った。下船時に船頭が僧に「船賃を払え」と言うと、僧は「薩摩の守」。
※平清盛の異母弟で和歌や能の題材ともなっている薩摩守忠度(さつまのかみただのり)を「ただ乗り」にもじっている。
惣谷狂言がどのように生まれたのかは定かでない。一説として、ひと山越えたところに、芸能の神様とも呼ばれている天河大辨財天社がある。大きな能舞台が有り、今でも大祭で能楽が奉納されている。これを見た人々が、理解しやすい狂言を真似するうちに地狂言となって周辺地域で演じられてきたという説である。
同じようなことは南河内の俄にもあてはまるのではないだろうか。
※ユーチューブ「惣谷狂言」 https://www.youtube.com/watch?v=Hs0ansyFJWI
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