『本阿弥光悦(ほんあみこうえつ・1558~1637) は戦乱の時代に生き、さまざまな造形にかかわり、革新的で傑出した品々を生み出しました。それらは後代の日本文化に大きな影響を与えています。 しかし光悦の世界は大宇宙 (マクロコスモス)のごとく深淵で、その全体像をたどる ことは容易ではありません。
そこでこの展覧会では、光悦自身の手による書や作陶にあらわれた内面世界と、同じ信仰のもとに参集した工匠たちがかかわった蒔絵など同時代の社会状況に応答した造形とを結び付ける糸として、光悦とその一族が篤く信仰した当代の法華町衆の社会についても注目します。造形の世界の最新研究と信仰のあり様とを照らしあ わせることで、総合的に光悦を見通そうとするものです。
「一生涯へつらい候事至てきらひの人」で「異風者」(『本阿弥行状記」)といわれた光悦が、篤い信仰のもと確固とした精神に裏打ちされた美意識によって作り上げた諸芸の優品の数々は、現代において私たちの目にどのように映るのか。本展を通じて紹介いたします。』展覧会チラシより
展覧会は一切撮影禁止のため写真はネット画像を借用しました
短剣 銘兼氏 金象嵌 花形見
刻鞘変り塗り忍ぶ草 蒔絵合口腰刀 光悦唯一の指料「花形見」
実物の拵えの見事さは必見!
花唐草文螺鈿経箱 本阿弥光悦作
木製漆塗 江戸時代17世紀 京都・本法寺 重要文化財
光悦漆芸の基準作
国宝
厳島神社に奉納した経典を入れた唐櫃
「光悦蒔絵」の代表作、晩年、鷹峯で制作された
舟橋とは、船を並べて橋にしたもの。『舟橋蒔絵硯箱』は、川に浮かぶ船に、橋板が架けられた様子を表している。
万葉集にも歌われた「佐野の舟橋」に由来する。伝承によると、上野国佐野の烏川を挟んで、東に朝日の長者、西に夕日の長者が暮らし反目していた。朝日の長者には那美(なみ)という娘、夕日の長者には小次郎という息子がいて、川岸で出会った二人は恋に落ち、毎夜舟橋で逢瀬を繰り返していた。夕日の長者は二人の仲に気づき小次郎を家から出さない、舟橋に来た那美は小次郎を探して、闇の中、舟橋の中程まで進むと、あるはずの橋板を何者かが外し、那美はそのまま川に落ちて亡くなった。家を抜け出した小次郎は、那美の片方の履物を見つけ、成行を察し川に身を投げる。それから、舟橋に男女の幽霊が夜ごと現れる…
「かみつけの、佐野の舟橋とりはなち 親はさくれど、吾(あ)はさかるがへ」(佐野の舟橋を取り外すように、親が恋人との間を裂こうとしても、私は決して離れない)と二人の悲恋が歌われた
シェークスピアが『ロメオとジュリエット』を書く、500年以上前のお話し
この伝説をもとに、数々の歌が歌われたが、光悦は『後撰和歌集』(958年)の源等(みなもとのひとし:880〜951)の和歌をもとに『舟橋蒔絵硯箱』を制作した
「東路乃 さ乃々(舟橋)かけて濃ミ 思わたるを知る人そなき」(舟橋)は、舟橋を表す鉛板で表しているため文字は省略されている
(東国の佐野にある舟橋という危ない橋をかけるように、ずっと恋しているのに、あの人は知ってくれない)
天板の“根引きの松”は「初音」、上段の“扇面”は「夕顔」、中段の“御所車と白丁”は「関屋」、源氏物語の各帖を表している
徳島藩主蜂須加家に伝来した
江戸時代17世紀 京都国立博物館
俵屋宗達の下絵のあまりの出来栄えに圧倒され、光悦が冒頭の柿本人麻呂の名前を“柿本◯麻呂”と書き、後で“人”を付け足した(意図的?)というエピソードが残る傑作
展覧会のトリを飾るのは、第4章光悦茶碗
光悦ほどの人物ならば、珠光、紹鴎、利休と続く『茶の湯』の伝統に並ぶ宗匠となってもおかしくは無いと思うのだが、一流一派に偏することなく、古田織部や織田有楽斎に教えをうけ、千宗旦、小堀遠州とも深く交り『茶の湯』を極めた
秀吉と利休、家康と織部、時の権力者によって腹を切らされた茶人の姿を見ていたのだろうか…
家康から京都郊外の鷹峯を拝領した(追い出された)光悦はここに法華町衆の芸術村をつくり、楽右衛門常慶と親交を結び自らも名碗を創った
赤楽茶碗 銘 乙御前 本阿弥光悦作 重要文化財
乙御前とは“オカメ”のこと
光悦の赤楽茶碗はとてもセクシーです、私は“熟柿”という茶碗が好きです
愛知・名古屋市博物館蔵 重要文化財
光悦の黒楽茶碗の名品、薄さを追求した、シャープな造形
東京・出光美術館 重要文化財
琳派の文脈で語られる事が多い
本阿弥光悦を、
書、漆芸、陶芸、茶道、出版など様々な造形に
作家、プロデューサーとして関わった総合芸術家の姿を展開する
★★★★★
レオナルド・ダ・ヴィンチ的天才
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます