「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「千本釈迦堂」(せんぼんしゃかどう)

2006年05月18日 10時47分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 千本釈迦堂大報恩寺は今から770余年前、鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護をうけ、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されている。京都の町を焼き尽くした応仁の乱でも本堂は焼けなかったのである。これは非常に驚くべきことと言える。何故か。ここ大報恩寺は西陣の只中にあるからだ。つまり、戦闘の中心地であったということになる。それが証拠に大報恩寺の本堂の中にも応仁の乱の際に付けられた戦闘の傷跡がはっきりと残されている。
 また、この本堂の手前の両脇には西軍の大将であった山名宗全所縁の堂宇がある。本陣がこの寺の辺りに置かれたのだという話も聞いた。そうした中で、何度も攻め込まれながら、本堂だけは決して焼失しなかったという。

 義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立した。
 本尊である釈迦如来像にちなんで釈迦堂と云われますが、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)と区別する意味で、千本釈迦堂と呼ばれ、その千本とは近くを南北に走る千本通を指しますが、千本通は平安京の朱雀大路に重なる通りで、いつの頃からか千本通と呼び習わされます。その由来は定かではなく、大路の両側に立ち並んだ千本の卒塔婆に由来するとか、千本の桜とも、いや千本の松並木が連なっていたからだとか、諸説あったりします。朱雀大路の突き当たりには蓮台野(れんだいの)と呼ばれた葬送の地があったとされ、卒塔婆説とも思えるけれど、近くの引接寺の普賢像桜には室町時代に多くの公家達が、この桜を一目見ようと押し掛けたと云う話も残り、こちらもまんざら捨てたものじゃなしの話ですが、この千本とは多いことを形容する言葉のようです。

 千本釈迦堂は「おかめ塚」の話が伝わるお寺としても知られている。義空上人が大報恩寺の本堂を建立するにあたり、当時名大工として名声を馳せていた長井飛騨守高次を総棟梁として選んだ。高次は数百という大工の頭として采配を揮いますが、ある日のこと何を勘違いしたのか、本堂を支える親柱の四本の内の1本を短く切り落としてしまった。材木を新しく取り寄せて組みなおすには、棟上の巡察の期限までには間に合わない。
 途方に暮れる高次に妻の阿亀(おかめ)は、夫の苦悩に心を痛めたおかめは、観音様に「夫の窮地を救ってください、お助けいただけたら私の命はいりません」と願をかけた。すると観音様が現れ棟の組み方のヒントを授けてくれた。
 おかめは、そのことを夫に伝え「柱を短く揃え斗栱(ますぐみ)を入れて高さを合わせればどうでしょう」と言った。そのアイデアもあって今に見る端正な本堂は完成しますが、阿亀は「女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥となる」と自害して果てます。
 今の時代では何ともそぐわない話ですが、封建時代と云う歴史の中での悲劇のひとつです。口碑によれば高次は、亡き妻おかめの名にちなんだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の
冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったと言われている。
 今日、棟上式に上げられる「おかめ御幣」は、おかめの徳を偲び、永久堅固、繁栄を祈るためと言われている。
 端正な本堂と枝垂れ桜 この話は大工達に受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工、池永勘兵衛が本堂の脇に「おかめ供養塔」を建立した。このことから建築、造園関係の信仰も厚く、そしておかめさんは湯殿を建てて大工達に入浴を勧めたと云う話もあり、銭湯関係者のお参りも多いとか…。

 その本堂は応仁の乱、大永の乱、享保の大火でもその戦禍、災難を免れ、京都に現存する寺院としては最も古い本堂となっている。街中に溶け込んでちょっと判りにくい千本釈迦堂だが、上七軒の交差点から北へ真っ直ぐ徒歩5分ぐらい。この上七軒は京都で最も古い歴史と格式のある花街。祇園などの近世以降の繁栄とは無縁に、西陣の奥座敷として、2月の梅花祭を始め幾多の伝統行事も支えて来た。夏、歌舞練場の中庭にビヤーガーデンが開設され、現役の舞子、芸子が輪番で接客に当り、中年層に人気がある。
では、宝物を少し紹介しておこう。

 まず京都最古の建物、国宝「本堂」は、安貞元年義空上人の建立で、内陣外陣区画の初期の遺構、内陣に内々陣四天柱のある釈迦念仏の道場。正面24.30㍍、側面28㍍。斗栱を施した緩やかで優美な曲線の寝殿造りである。
 国宝「本尊厨子と天蓋」は、高御座式厨子で、天蓋は八葉蓮華文、八方吹返し、周囲に瓔珞をたれる、高御座の大円鏡に代わるもので、釈尊の最高の至誠を捧げた唯一の遺構と伝えられている。
 国宝「本堂来迎板壁仏画」は、現存する鎌倉期の最も画面が広い、原画が剥落し不明の箇所が多いが、前面は四天王、普賢文珠、梵天帝釈。背面は叡山を想定した霊鷲山迦説法図と言われている。
 義空上人の墨書銘のある本堂の棟木と棟札3枚は、国宝に指定されている。重要文化財指定の「本尊釈迦如来像」は、大仏師快慶の高弟巧匠・行快の作、目じり、口元の理智的な作風は快慶の流れをくむと言えよう。もう一点、重要文化財指定の仏像を紹介しておこう。京都に広まった「六道参り」の基ともなった「六観音像」の六体が安置されている。貞応3年(1224)定慶の作で、聖、千手、十一面、馬頭、准胝、如意輪の六観音菩薩像、六体完全な形で残されている。美しい滑らかな肌の材質は檜ではなかろうか。

 所在地:京都市上京区今出川七本松上る。
 交通:京都駅から市バス50、52。阪急大宮駅から市バス8、55。京阪三条駅から市バス10で上七軒下車、徒歩約3分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする