市営地下鉄北大路駅から徒歩約1時間、街並を離れ畑と民家の中の細い道を歩いて行くと山門が見える。大文字五山送り火の1つ舟山南稜の山腹に有る小寺院で血天井の寺としても知られている。
鎌倉時代、北条時頼を悟りに導いた中国の僧・兀菴普寧(ごつあんふねい)禅師の法を受け継いだ東巌慧安(とうがんえあん)禅師によって弘安5年(1282)に創建。護国寺の名の通り、元寇の国難に立ち向かうべく、「願わくば神明、国民の五体の内に入り、蒙古の敵を討ち滅ぼさせしめ給い、神は雲となり、風となり、雷となり、国敵を催破せしめられんことを(東巌慧安の祈願文より)」という思いで降伏祈願・国家安泰のためにつくられた。現在の本堂は承応2年(1652)に伏見城から移築されたものである。
ここに移設された血天井は武将たちの壮絶な最期を窺い知ることができ、涙を誘う。慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いで、東軍と西軍が戦いの火蓋を切ったのは伏見城である。徳川家康率いる東軍の主力が上杉征伐に向かった隙を見計らって、西軍が東軍に攻撃を仕掛けたのが、家康の忠臣・鳥居元忠の居城である伏見城であった。鳥居軍は篭城するも、圧倒的な兵力差の前に2週間で落城、元忠らは自決して果て、城内は凄惨な血の海となった。
後に家康は供養のため伏見城の床を寺に移されたいわれ、正伝寺の他にも、鷹ヶ峰の麓にある源光庵、三十三間堂の近くにある養源院、大原の宝泉院、宇治の興聖寺にも移設している。
庭園は江戸初期の枯山水で小堀遠州の作庭、一石も用いず、つつじの刈り込みが基調となっている珍しいもので、七・五・三に配され「獅子の子渡し」とも呼ばれている。
庭は白塀を配し清楚で落ち着きがある。白塀越しの比叡山を借景に、その稜線をなぞるようにして月が渡っていくという意図で作庭され、別名「月の寺」として知られる。
「庭は月の光を溜める器、白壁は彼岸と娑婆の境かも知れませんね」という説明を聞きながら、雄大にそびえる比叡山を眺め瞑想に耽った。
重要文化財指定の本堂は、初めは聚楽第の一部であったものが伏見城の城郭という歴史を経て移築され、堂内には狩野山楽作の襖絵があり重要文化財に指定されている。
所在地:京都市北区西賀茂北鎮守菴町72。
交通:JR京都駅より市バス9系統西賀茂車庫行(約40分)、神光院下車、徒歩15分。
鎌倉時代、北条時頼を悟りに導いた中国の僧・兀菴普寧(ごつあんふねい)禅師の法を受け継いだ東巌慧安(とうがんえあん)禅師によって弘安5年(1282)に創建。護国寺の名の通り、元寇の国難に立ち向かうべく、「願わくば神明、国民の五体の内に入り、蒙古の敵を討ち滅ぼさせしめ給い、神は雲となり、風となり、雷となり、国敵を催破せしめられんことを(東巌慧安の祈願文より)」という思いで降伏祈願・国家安泰のためにつくられた。現在の本堂は承応2年(1652)に伏見城から移築されたものである。
ここに移設された血天井は武将たちの壮絶な最期を窺い知ることができ、涙を誘う。慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いで、東軍と西軍が戦いの火蓋を切ったのは伏見城である。徳川家康率いる東軍の主力が上杉征伐に向かった隙を見計らって、西軍が東軍に攻撃を仕掛けたのが、家康の忠臣・鳥居元忠の居城である伏見城であった。鳥居軍は篭城するも、圧倒的な兵力差の前に2週間で落城、元忠らは自決して果て、城内は凄惨な血の海となった。
後に家康は供養のため伏見城の床を寺に移されたいわれ、正伝寺の他にも、鷹ヶ峰の麓にある源光庵、三十三間堂の近くにある養源院、大原の宝泉院、宇治の興聖寺にも移設している。
庭園は江戸初期の枯山水で小堀遠州の作庭、一石も用いず、つつじの刈り込みが基調となっている珍しいもので、七・五・三に配され「獅子の子渡し」とも呼ばれている。
庭は白塀を配し清楚で落ち着きがある。白塀越しの比叡山を借景に、その稜線をなぞるようにして月が渡っていくという意図で作庭され、別名「月の寺」として知られる。
「庭は月の光を溜める器、白壁は彼岸と娑婆の境かも知れませんね」という説明を聞きながら、雄大にそびえる比叡山を眺め瞑想に耽った。
重要文化財指定の本堂は、初めは聚楽第の一部であったものが伏見城の城郭という歴史を経て移築され、堂内には狩野山楽作の襖絵があり重要文化財に指定されている。
所在地:京都市北区西賀茂北鎮守菴町72。
交通:JR京都駅より市バス9系統西賀茂車庫行(約40分)、神光院下車、徒歩15分。