嘉祥寺は天台宗寺院で、本堂に歓喜天(聖天)を祀ることから「深草聖天(ふかくさしょうてん)」とも呼ばれ、開運招福祈願の信仰を集めている。小さな寺院だが、かつてこの地にあった由緒ある大寺の名を留めている。
平安時代の嘉祥4年(851)、文徳天皇は父帝・仁明天皇の菩提を弔うために、深草の父帝の山陵の傍に内裏の清涼殿を移築して寺院とし、真言僧の真雅僧都(法光大師)を開山とし、当時の年号をとって嘉祥寺と名付けた。
文徳天皇自身も落飾後は嘉祥寺に移り、貞観3年(861)に境内に西院を建立、清和天皇の時代に貞観寺と名付けられて独立した寺院となる。その後、嘉祥寺は陽成天皇の元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、さらに光孝天皇は嘉祥寺境内に五種類の塔を造営したという。
平安時代初期の嘉祥寺は、七僧を置いて朝廷の御願を修し、広大な寺域を持ち多くの堂宇の建ち並んだ大寺であったが、平安時代末には衰えて仁和寺の別院となった。
その後、鎌倉時代中期に藤原道基が嘉祥寺の再建を図り、道基の持仏堂だった法華堂を移築しさらに仏堂を造営、「安楽行院」と名付けた。安楽行院は境内の法華堂に鎌倉末期の後深草天皇以降の12人の天皇の火葬された遺骨を納め管理する寺院となるが、応仁の乱により、法華堂と一部の仏殿を除いて焼亡したという。
しかし、江戸時代の寛文年間(1661~73)に、空心律師が安楽行院を再建し、その際、同院境内に聖天を祀って嘉祥寺も再興され、安楽行院嘉祥寺と号した。なお、聖天像は安楽行院再建の際、竹林の中から掘り出したと伝えられいる。
明治以降は廃仏棄釈の影響もあって衰え、明治27年(1894)に深草十二帝陵が整備されるに伴って、仏殿や庫裏等の大部分が壊されたという。こうして、法華堂を中心とする十二帝陵が造られる一方で、嘉祥寺は境内地を削られ、現在は歓喜聖天堂と諸仏を残すのみとなったが、日本最初といわれる歓喜天をはじめ11面観音や不動明王像を所蔵し「深草聖天」として親しまれている。また、境内にある石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えられている。歓喜天は仏道の魔を排する神と云われ、中には男女和合の姿であったりもし、秘仏とされることも多い。
当寺の隣にある「深草十二帝陵」とも呼ばれる「深草北陵」(ふかくさきたのみささぎ)は、後深草天皇をはじめ、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おおぎまち)、後陽成の十二帝天皇と初代伏見宮の栄仁親王(崇光天皇の皇子)栄仁親王の遺骨が安置されている合葬陵墓で、東山区の泉涌寺境内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)と並んで最も多くの天皇を埋葬した陵墓として知られている。
深草界隈は由緒ある寺院が立ち並んでいたこともあり「坊町」という地名の由縁もおしはかれる。静かな坊町の小道をそぞろ歩くのも良きもので、山間にはいくつかの小滝がありトレッキングをする人ともすれ違う。
そんな小道の一角に嘉祥寺があるのだが、入口が分かりにくく通り過ぎては引き返した。通りかかったお婆さんに尋ねると親切に道案内をしてくれた。そんな穏やかな町でもある。
所在地:京都府京都市伏見区深草坊町71。
交通:京阪電車深草駅下車、徒歩10分。
平安時代の嘉祥4年(851)、文徳天皇は父帝・仁明天皇の菩提を弔うために、深草の父帝の山陵の傍に内裏の清涼殿を移築して寺院とし、真言僧の真雅僧都(法光大師)を開山とし、当時の年号をとって嘉祥寺と名付けた。
文徳天皇自身も落飾後は嘉祥寺に移り、貞観3年(861)に境内に西院を建立、清和天皇の時代に貞観寺と名付けられて独立した寺院となる。その後、嘉祥寺は陽成天皇の元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、さらに光孝天皇は嘉祥寺境内に五種類の塔を造営したという。
平安時代初期の嘉祥寺は、七僧を置いて朝廷の御願を修し、広大な寺域を持ち多くの堂宇の建ち並んだ大寺であったが、平安時代末には衰えて仁和寺の別院となった。
その後、鎌倉時代中期に藤原道基が嘉祥寺の再建を図り、道基の持仏堂だった法華堂を移築しさらに仏堂を造営、「安楽行院」と名付けた。安楽行院は境内の法華堂に鎌倉末期の後深草天皇以降の12人の天皇の火葬された遺骨を納め管理する寺院となるが、応仁の乱により、法華堂と一部の仏殿を除いて焼亡したという。
しかし、江戸時代の寛文年間(1661~73)に、空心律師が安楽行院を再建し、その際、同院境内に聖天を祀って嘉祥寺も再興され、安楽行院嘉祥寺と号した。なお、聖天像は安楽行院再建の際、竹林の中から掘り出したと伝えられいる。
明治以降は廃仏棄釈の影響もあって衰え、明治27年(1894)に深草十二帝陵が整備されるに伴って、仏殿や庫裏等の大部分が壊されたという。こうして、法華堂を中心とする十二帝陵が造られる一方で、嘉祥寺は境内地を削られ、現在は歓喜聖天堂と諸仏を残すのみとなったが、日本最初といわれる歓喜天をはじめ11面観音や不動明王像を所蔵し「深草聖天」として親しまれている。また、境内にある石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えられている。歓喜天は仏道の魔を排する神と云われ、中には男女和合の姿であったりもし、秘仏とされることも多い。
当寺の隣にある「深草十二帝陵」とも呼ばれる「深草北陵」(ふかくさきたのみささぎ)は、後深草天皇をはじめ、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おおぎまち)、後陽成の十二帝天皇と初代伏見宮の栄仁親王(崇光天皇の皇子)栄仁親王の遺骨が安置されている合葬陵墓で、東山区の泉涌寺境内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)と並んで最も多くの天皇を埋葬した陵墓として知られている。
深草界隈は由緒ある寺院が立ち並んでいたこともあり「坊町」という地名の由縁もおしはかれる。静かな坊町の小道をそぞろ歩くのも良きもので、山間にはいくつかの小滝がありトレッキングをする人ともすれ違う。
そんな小道の一角に嘉祥寺があるのだが、入口が分かりにくく通り過ぎては引き返した。通りかかったお婆さんに尋ねると親切に道案内をしてくれた。そんな穏やかな町でもある。
所在地:京都府京都市伏見区深草坊町71。
交通:京阪電車深草駅下車、徒歩10分。