「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「嘉祥寺」(かしょうじ)

2009年03月25日 22時20分41秒 | 古都逍遥「京都篇」
 嘉祥寺は天台宗寺院で、本堂に歓喜天(聖天)を祀ることから「深草聖天(ふかくさしょうてん)」とも呼ばれ、開運招福祈願の信仰を集めている。小さな寺院だが、かつてこの地にあった由緒ある大寺の名を留めている。
 平安時代の嘉祥4年(851)、文徳天皇は父帝・仁明天皇の菩提を弔うために、深草の父帝の山陵の傍に内裏の清涼殿を移築して寺院とし、真言僧の真雅僧都(法光大師)を開山とし、当時の年号をとって嘉祥寺と名付けた。

 文徳天皇自身も落飾後は嘉祥寺に移り、貞観3年(861)に境内に西院を建立、清和天皇の時代に貞観寺と名付けられて独立した寺院となる。その後、嘉祥寺は陽成天皇の元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、さらに光孝天皇は嘉祥寺境内に五種類の塔を造営したという。

 平安時代初期の嘉祥寺は、七僧を置いて朝廷の御願を修し、広大な寺域を持ち多くの堂宇の建ち並んだ大寺であったが、平安時代末には衰えて仁和寺の別院となった。
 その後、鎌倉時代中期に藤原道基が嘉祥寺の再建を図り、道基の持仏堂だった法華堂を移築しさらに仏堂を造営、「安楽行院」と名付けた。安楽行院は境内の法華堂に鎌倉末期の後深草天皇以降の12人の天皇の火葬された遺骨を納め管理する寺院となるが、応仁の乱により、法華堂と一部の仏殿を除いて焼亡したという。

 しかし、江戸時代の寛文年間(1661~73)に、空心律師が安楽行院を再建し、その際、同院境内に聖天を祀って嘉祥寺も再興され、安楽行院嘉祥寺と号した。なお、聖天像は安楽行院再建の際、竹林の中から掘り出したと伝えられいる。

 明治以降は廃仏棄釈の影響もあって衰え、明治27年(1894)に深草十二帝陵が整備されるに伴って、仏殿や庫裏等の大部分が壊されたという。こうして、法華堂を中心とする十二帝陵が造られる一方で、嘉祥寺は境内地を削られ、現在は歓喜聖天堂と諸仏を残すのみとなったが、日本最初といわれる歓喜天をはじめ11面観音や不動明王像を所蔵し「深草聖天」として親しまれている。また、境内にある石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えられている。歓喜天は仏道の魔を排する神と云われ、中には男女和合の姿であったりもし、秘仏とされることも多い。

 当寺の隣にある「深草十二帝陵」とも呼ばれる「深草北陵」(ふかくさきたのみささぎ)は、後深草天皇をはじめ、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おおぎまち)、後陽成の十二帝天皇と初代伏見宮の栄仁親王(崇光天皇の皇子)栄仁親王の遺骨が安置されている合葬陵墓で、東山区の泉涌寺境内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)と並んで最も多くの天皇を埋葬した陵墓として知られている。

 深草界隈は由緒ある寺院が立ち並んでいたこともあり「坊町」という地名の由縁もおしはかれる。静かな坊町の小道をそぞろ歩くのも良きもので、山間にはいくつかの小滝がありトレッキングをする人ともすれ違う。
 そんな小道の一角に嘉祥寺があるのだが、入口が分かりにくく通り過ぎては引き返した。通りかかったお婆さんに尋ねると親切に道案内をしてくれた。そんな穏やかな町でもある。

 所在地:京都府京都市伏見区深草坊町71。
 交通:京阪電車深草駅下車、徒歩10分。

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「妙蓮寺」(みょうれんじ)

2009年03月14日 09時33分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 10月13日の日蓮聖人の入滅の日、前後から咲き始め、年をまたいで、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろに満開となる珍しい桜の木がある「妙蓮寺」という寺があるというので出かけた。

 大本山妙蓮寺は、宗祖日蓮聖人より帝都弘通の遺命を受けた日像聖人によって、
永仁2年(1294)に創建された。日像がその遺命を果たすため鎌倉より京都へ上っとき出会った、五条西洞院の造酒屋の中興氏(柳屋仲興入道妙蓮法尼)の帰依を受けて、柳屋邸内に一宇を建立して聖人を請じ、山号を柳の字を2つに分けて卯木山(うぼくさん)妙法蓮華寺と称した。 これが妙蓮寺の縁起として伝わっている。
 たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興した。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開き隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。

 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺に立ち退いた。
 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1km平方メートルの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったようだが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在は塔頭8ヶ院を残す。本尊は日蓮自筆と伝える十界曼荼羅という。

 では「御会式桜」(おえしきざくら)について説明しておこう。
 冒頭で紹介したように日蓮聖人の入滅の日頃から咲き始め、お釈迦様の聖誕日頃に満開となる珍しい桜で、この桜の散った花びらを持ち帰ると「恋が成就」すると言われており、桜の季節になると若者たちの参拝が絶えないとのこと。樹高は6m、枝張約10m、幹周62cmだそうだ。
 桜のほかに「妙蓮椿」として伝えられている椿の木がある。
 この椿は、妙蓮寺の一塔頭玉龍院が預かり育てていたが、1962年に火災に遭い焼失している。当寺の什宝として伝えられた「妙蓮寺記」に「洛陽妙蓮寺境内図」という部分があり、昔の境内の玉龍院と記された傍らに「椿の木」と書かれていて、昭和30年頃には立派な椿として年々花を咲かせていたという。また、室町時代に活躍した連歌師宗祇(1421~1502)の「妙蓮寺椿」の図と賛との掛軸の写しが載せられている。妙蓮寺椿はこの時すでに在り、数えて5百年以上の歴史があるということになる。妙蓮寺椿は本来紅のやや濃い大中輪、花弁は4~5枚だという。

 石庭や襖絵が見もので、奥書院前の「十六羅漢石庭」は、桂離宮の造営を指示した妙蓮寺の玉淵坊日首上人が作庭したもので、中央に置かれた石は「臥牛石」と言い、豊臣秀吉によって伏見城から寄進されたもので、また、玄関や奥書院の襖絵は長谷川等伯一派によって描かれた金碧画があり、これも豊臣秀吉が寄進したものだと言われている。他に鎌倉時代の法華経、本阿弥光悦の「立正安国論」一巻などの重要文化財の寺宝がある。

 境内の本堂前には御会式桜や木蓮や白木蓮、芙蓉など境内には四季に合わた花々が植えられている。
 また、赤穂浪士の遺髪と祀った墓や、御所から拝領され移設された山門、江戸時代初期に建立された本格的な鐘楼など、多くの歴史的な建造物などがあり、歴史愛好家には見逃せない寺である。

 所在地:京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町857。
 交通:JR京都駅から京都市バス9号系統、堀川寺ノ内下車、寺ノ内通りを西に徒歩4分。京阪電車で四条駅下車、南座前から京都市バス12号系統、堀川寺ノ内下車。

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「上賀茂神社社家の町並み」(しゃけのまちなみ)

2009年03月05日 23時52分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都には歴史を偲ぶ町並み、心が癒される町並みというのがある。その中の一つ、上賀茂神社の南に賀茂社から流れ出る明神川に沿って、石垣を積み、白い土塀で囲った家が30軒余り続く。これらは同神社の神官らが住んだ屋敷(社家)で、風格のある家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、唯一、数寄屋造の西村家別邸(錦部家旧宅)(料金:500円)が公開されており、社家の内部をうかがうことができる。このような町並みは、近隣では滋賀県近江八幡市や比叡山麓の坂本、岐阜県の郡上八幡、さらに遠くは山口県の津和野なども観光名所として知られている。

 さて、上賀茂神社は京都市街の最北部、賀茂川にかかる御園橋の北東部にある。下賀茂神社(下社)に祀る玉依姫命の子、別雷神を祭神とする。上・下社を「賀茂社」と総称することもあり、賀茂氏の祖神を祀ったと考えられている。創祀は不明だが、社伝では天武天皇6年(678)に社殿を造営したと伝えられている。正式には賀茂別雷神社という。

 上賀茂に社家集落が形成されたのは室町時代と言われる。上賀茂神社では、古くは賀茂氏人の中から社務職を選んでいたが、鎌倉時代以降は、後鳥羽天皇の長子と言われる氏久の系統につながる家々がこれを独占することになる。松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本の賀茂七家が、明治時代までは神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など九職を務めることになっていた。そしてそれらに携わる人々が社家町を形成して集住した。

 神社境内を流れる清流「ならの小河」は、百人一首の藤原家隆の歌にある「風そよぐならの小河の夕暮れは ……」で「ならの小河」は上賀茂神社境内では「楢の小川」、境内をでると「明神川」と名を変える。神官たちはこの川の水で、神道の「禊(みそぎ)」行っていた。それは屋敷に引き込んだ明神川の水をかぶって身を清めた。
 道路の北側の屋敷もまた社家なのだが、明神川に沿ってないだけに、川の水が利用できず、庭園は枯れ山水として造られていた。

 現在、明神川沿いに見られる風格ある石橋・土塀や門、切り妻造りの棟の低い主屋、土塀の奥に見える緑豊かな樹木等、これらは全て社家と社家町を象徴する貴重な歴史的遺産となっており、その中に西村家別邸がある。錦部家の旧邸(現在は西村家別邸)は現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っており、養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤本重保が作庭したといわれている。
 また、「賀茂七家」に数えられていた社家も健在で、現主屋の建築年代は不明であるが、天保9年(1838)頃にはほぼ現在の形になっていたと思われる。「賀茂七家」のなかでは現存唯一の遺構であり、昭和61年市文化財に指定された。
 各家の中庭にはこの川より水が引きいれられており、母屋は流れに面して建ち、緩やかに弧を描く石橋が渡され、優雅な風景を作り出している。近くに杜若の群生地がある大田神社、沼地植物そして冬鳥の飛来地ともなる深泥池などもあり、そこに至る山裾の家並も落着きがある。道路は車の通行が多いが、明神川の水音が絶えずしていて、気分が落ち着く。
 参考文献:「京都府の歴史散歩中」(山川出版社/山本四郎著)、「歴史の町並み事典」(東京堂出版/吉田桂二著)など他。

 所在地:京都市北区上賀茂中大路町。
 交通:京都市営地下鉄北山駅4番出口、市バス4系統で11分、上賀茂神社前下車徒歩3分。JR京都駅から市バス9系統で約27分、上賀茂御薗橋下車徒歩8分。

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