臨済宗南禅寺派総本山、瑞龍山太平興国南禅禅寺は、京都五山(天龍寺・建仁寺・相国寺・東福寺・万寿寺)の上に位置する「五山之上」という格式を誇る名刹として内外に知られている。
当寺は正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創された。
亀山法皇といえば、蒙古来襲の国難に立ち向かったことで知られている。
国難が去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)し、法皇となり、離宮(現南禅院)を建立。ほどなく離宮に妖怪な事が起こり、妖怪祓いの護摩を焚いたりしたが治まらず、無関禅師は雲衲(修行僧)を迎え、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送ると、妖怪な事は終息してしまった。このことから、法皇は禅師の徳をたたえて帰依し、正応四年離宮を禅寺とし、ここを基として大伽藍が造営され南禅寺が形成されていく。
足利義満の時、五山制度の中で五山を超える禅宗寺院最高の寺格を受け、五山文化の中心となった。
応仁の乱以降は衰退したが、江戸初期に崇伝が金地院を移入して再興をはたし、多くの文化財を今に伝えている。
伽藍は西を正面とし、背後には東山、勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移築したもの。
三門は(1628年、重要文化財)、五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式で、寺院を代表する正門であり禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)の1つ。山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無柏門、無作門をも意味している。楼閣には宝冠釈迦如来を本尊とし、西側に十六羅漢が祀られ、天井には鳳凰、天女図、周囲の装飾は、狩野探幽守信、絵所土佐法眼徳悦の筆により「五鳳楼」と呼ばれ、別名「天下竜門」とも称され、日本三大門の1つとされている。
開創当時のものは永仁3年西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失しました。
三門が天下に名高いのはそのスケールだけではなく、歌舞伎「楼門五三の桐」で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ この五右衛門の目からは値万両」と見栄を切るくだりは、ここが舞台となっていることからでもある。当時、高い建物がなかったであろうことから、この三門からの眺めはさぞ絶景なるかなが窺い知れる。普段は拝観禁止で、春・秋に一般公開されている。
方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したもの。平面は六室に分かれ、中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており、広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えている。内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え、桃山前期の狩野派の手になるとされています。また、小方丈は伏見城の遺構といわれ、内部に探幽筆といわれる「群虎図」(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれていまる。
大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられている。寺宝として南禅寺創建の経緯を記した「亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案」(1299年、国宝)、開山の頂相「大明国師像」(重要文化財)などがある。
法堂は開堂等法式行事の行なわれる場所で、内部には中央に釈迦如来像、獅子に騎った文殊菩薩、象王上の普賢菩薩の三体が祀られ、一面の敷瓦に巨大な欅の大円柱が林立しており、荘厳そのものである。天井には今尾景年画伯畢生の大作といわれる幡竜が画かれている。
勅旨門は、寛永18年(1641)明正天皇より拝領した御所「日の御門」である。勅使の来山か、住持の晋山等に限って開かれる。 文化財のうち、襖絵以外は一般公開していない。
境内に古びた赤煉瓦造りの水路がある。映画、テレビドラマでもたびたび登場するこの疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、90年に竣工した。
疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、89年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。
赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしと紅葉に彩られ、今では一種の美を湛えている。
塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われ、また以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多く、天授庵には「細川幽斎像・同夫人像」など、聴松院には「細川蓮丸像」、牧護庵(法皇寺)には「約翁徳倹像」の重要文化財絵画があり、これらの塔頭もあわせて拝観するとよい。
所在地:京都市左京区南禅寺福地町
交通:地下鉄京阪蹴上駅1番出口から徒歩10分。
当寺は正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創された。
亀山法皇といえば、蒙古来襲の国難に立ち向かったことで知られている。
国難が去った正応2年(1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)し、法皇となり、離宮(現南禅院)を建立。ほどなく離宮に妖怪な事が起こり、妖怪祓いの護摩を焚いたりしたが治まらず、無関禅師は雲衲(修行僧)を迎え、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送ると、妖怪な事は終息してしまった。このことから、法皇は禅師の徳をたたえて帰依し、正応四年離宮を禅寺とし、ここを基として大伽藍が造営され南禅寺が形成されていく。
足利義満の時、五山制度の中で五山を超える禅宗寺院最高の寺格を受け、五山文化の中心となった。
応仁の乱以降は衰退したが、江戸初期に崇伝が金地院を移入して再興をはたし、多くの文化財を今に伝えている。
伽藍は西を正面とし、背後には東山、勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移築したもの。
三門は(1628年、重要文化財)、五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式で、寺院を代表する正門であり禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)の1つ。山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無柏門、無作門をも意味している。楼閣には宝冠釈迦如来を本尊とし、西側に十六羅漢が祀られ、天井には鳳凰、天女図、周囲の装飾は、狩野探幽守信、絵所土佐法眼徳悦の筆により「五鳳楼」と呼ばれ、別名「天下竜門」とも称され、日本三大門の1つとされている。
開創当時のものは永仁3年西園寺実兼の寄進によって創立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失しました。
三門が天下に名高いのはそのスケールだけではなく、歌舞伎「楼門五三の桐」で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ この五右衛門の目からは値万両」と見栄を切るくだりは、ここが舞台となっていることからでもある。当時、高い建物がなかったであろうことから、この三門からの眺めはさぞ絶景なるかなが窺い知れる。普段は拝観禁止で、春・秋に一般公開されている。
方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したもの。平面は六室に分かれ、中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており、広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝えている。内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え、桃山前期の狩野派の手になるとされています。また、小方丈は伏見城の遺構といわれ、内部に探幽筆といわれる「群虎図」(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれていまる。
大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられている。寺宝として南禅寺創建の経緯を記した「亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案」(1299年、国宝)、開山の頂相「大明国師像」(重要文化財)などがある。
法堂は開堂等法式行事の行なわれる場所で、内部には中央に釈迦如来像、獅子に騎った文殊菩薩、象王上の普賢菩薩の三体が祀られ、一面の敷瓦に巨大な欅の大円柱が林立しており、荘厳そのものである。天井には今尾景年画伯畢生の大作といわれる幡竜が画かれている。
勅旨門は、寛永18年(1641)明正天皇より拝領した御所「日の御門」である。勅使の来山か、住持の晋山等に限って開かれる。 文化財のうち、襖絵以外は一般公開していない。
境内に古びた赤煉瓦造りの水路がある。映画、テレビドラマでもたびたび登場するこの疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、90年に竣工した。
疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、89年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。
赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしと紅葉に彩られ、今では一種の美を湛えている。
塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われ、また以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多く、天授庵には「細川幽斎像・同夫人像」など、聴松院には「細川蓮丸像」、牧護庵(法皇寺)には「約翁徳倹像」の重要文化財絵画があり、これらの塔頭もあわせて拝観するとよい。
所在地:京都市左京区南禅寺福地町
交通:地下鉄京阪蹴上駅1番出口から徒歩10分。