ひんやりとした空気に包まれている高尾山麓、周山街道から木々の緑が清々しい谷間に降りると、緑を映して流れ行く清滝川の清流が瑞々しい。清滝川を結界とし、勾配のある参道を息も絶え絶えに登ると、樹齢数百年と思われる楓や檜たちが出迎えの沐浴をしてくれる。
石段を上り詰めた先に楼門が見える。鎌倉文化の匂いがたちこめる山内は、約20万平方キロ(6万坪余り)といわれ木々の緑におおわれている。秋は紅葉(高尾紅葉)の名所として知られ大勢の人たちが訪れ、紅葉の天ぷらに舌鼓を打つすがたがそこかしこに見られる。
神護寺は真言宗の山寺で、天応1年(781)僧慶俊を本願とし和気清麻呂(わけのきよまろ・平安京造営の最高責任者)を奉行として草創された愛宕五坊の1つで和気氏の氏寺であった。天長元年(824)、河内の神護寺と併合されて神護国祚(そ)真言寺とした。大同4年(809)空海(弘法大師)が入山、14年間常住し初代住職となる。
空海は弘仁3年(812)に灌頂(密教で秘法を伝授する重要な儀式)を修した。このとき灌頂を受けた者の名前を空海が控えた記録が寺に残されており、歴名の筆頭に最澄の名がある。空海はその後何度かこの寺で灌頂を修し、神護寺は真言密教の重要な道場となり、平安新宗教の1拠点として栄えた。合併の2年前には最澄が没し、前年には比叡山寺が延暦寺と改称し、同年には東寺を教王護国寺と改め、空海は高野山に移り、空海にかわって弟子の真済(しんぜい)が神護寺に入り、真言密教化をさらに進めて空海の影響力が強大となっていったが、正暦5年(994)、久安5年(1149)と2度の大火により神護寺は衰退する。
その後、那智の滝をはじめ諸国行場で荒行をつんだ文覚上人が仁安3(1168)神護寺を訪れ、その荒廃を嘆いて再興を大願。寿永3年(1184)、源頼朝の援助を受け復興を果たす。
平家物語によれば文覚は、管弦が行なわれている席で勧進帳を読み上げ、後白河法皇に寄進を誓願。警護の武士と乱闘を起こし罪を負うが、それにも懲りず寄進を求めたため伊豆に流された。
伊豆流罪5年後の治承2(1178)に赦されて神護寺に帰り、ふたたび後白河法皇に訴え、伊豆流人時代親交を深めた源頼朝の後ろだてもあり、寄進を受けるのに成功し、大規模な伽藍の復興を実現した。
しかし、応仁の乱(1467~77)で大師堂を残して焼失、その後、天文16年(1547)の兵火によってことごとく炎上した。元和9(1623)龍厳上人のとき、楼門、金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で金堂、多宝塔が新築され現在の形になった。
文覚上人は出家前は遠藤盛遠(もりとう)という武士であった。
芥川竜之介の短編小説「袈裟と盛遠」、衣笠貞之助の映画「地獄門」でも描かれているように、盛遠には、横恋慕をした源渡の妻、袈裟御前に夫を殺してくれと頼まれ、殺してみればそれは実に夫の身代りになった袈裟御前であった。
愕然とした盛遠、世を儚んで出家したという話が伝わる。弟子には文覚上人を師として生涯離れなかった学僧浄覚上人、栂野尾高山寺を興した明恵上人らがいる。
■楼門:仁王ではなく、四天王のうちの増長天、持国天が安置されている。藤原時代の作 といわれている。
■両界曼荼羅(国宝):現存最古の両界曼荼羅遺品で、空海が中国(唐)長安の青龍寺に て師の恵果より付法の証として授与され、大同1年(806)に日本に持ち帰った。原 本は早くに損傷を受け、空海が転写したと伝わるが、いずれも失われている。
現在伝わる高雄曼荼羅は、神護寺略記によると、淳和天皇御願により制作されたという。天長年間後半(829-34)の制作になると推定され、当時神護寺に携わっていた空 海がかかわっていたと考えられている。
■平重盛像、源頼朝像、藤原光能像(いずれも国宝):日本の肖像画の代表的傑作とされて いる。
■了々軒:奴葺(やっこぶき)の大屋根に銅板葺の深い庇の八畳広間の茶席で、山口玄洞の寄進。五畳の水屋、四畳半と三畳の控室が付設。
■大師堂:徳川時代初期に再建されたもので細川忠興が造営したといわれる。
桁行左側面四間、右側面五間、梁間三間という変則的な柱配置を持つ。一重入母屋造柿 葺。内陣は広く、四本柱は外周の柱筋とは無関係に立てられている。後部壁面中央には 桟唐戸を吊った円柱により厨子を入れた小室がつくられている。
■金堂:昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で新築。内陣厨子のなかには本尊薬師如 来立像が安置され、薬師如来像は神願寺以来の本尊で平安初期、貞観時代の彫刻の最高 傑作とされる。如来形でありながら三屈法(頭と上半身と下半身を三段に屈折させた、 インド彫刻によく見られる形)をとる日本唯一の仏像例。
■本堂:金堂が再建されるまでここが金堂と呼ばれ、本尊薬師如来像を安置していたが、 現在は毘沙門天立像(重文)が安置されている。元和9年(1623)に始まる江戸時 代の復興期の建築。
■梵鐘:銅鐘(国宝)は三絶の鐘と呼ばれ、日本3名鐘の1つに数えられる。
金堂を出たら、趣深い杉や紅葉などの木々を通り抜けて、見晴らしよい茶屋の近くへ。
清滝川を眼下に見下ろし、絵に描いたような景色が広がる。歌謡曲の歌詞にもあったが “とんびがくるりと輪を描く”のも見える。ここでは平安貴族が厄除けの願いを込め て、瓦を投げたという言い伝えにちなんで、茶屋で2枚100円にて買い求め、見晴ら し台から投げることができる。鳶を追いながら飛んでゆく瓦、なかなか痛快だ。
なお、毎年5月1日から5日まで、宝物の虫払いが行われ、屋内に広げられる宝物を見 学できる。通常参拝とは別料金。
所在地:京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5。
交通:JR「京都駅」から「高雄方面行」のJRバス約50分「山城高雄」下車、徒歩20~30分。
石段を上り詰めた先に楼門が見える。鎌倉文化の匂いがたちこめる山内は、約20万平方キロ(6万坪余り)といわれ木々の緑におおわれている。秋は紅葉(高尾紅葉)の名所として知られ大勢の人たちが訪れ、紅葉の天ぷらに舌鼓を打つすがたがそこかしこに見られる。
神護寺は真言宗の山寺で、天応1年(781)僧慶俊を本願とし和気清麻呂(わけのきよまろ・平安京造営の最高責任者)を奉行として草創された愛宕五坊の1つで和気氏の氏寺であった。天長元年(824)、河内の神護寺と併合されて神護国祚(そ)真言寺とした。大同4年(809)空海(弘法大師)が入山、14年間常住し初代住職となる。
空海は弘仁3年(812)に灌頂(密教で秘法を伝授する重要な儀式)を修した。このとき灌頂を受けた者の名前を空海が控えた記録が寺に残されており、歴名の筆頭に最澄の名がある。空海はその後何度かこの寺で灌頂を修し、神護寺は真言密教の重要な道場となり、平安新宗教の1拠点として栄えた。合併の2年前には最澄が没し、前年には比叡山寺が延暦寺と改称し、同年には東寺を教王護国寺と改め、空海は高野山に移り、空海にかわって弟子の真済(しんぜい)が神護寺に入り、真言密教化をさらに進めて空海の影響力が強大となっていったが、正暦5年(994)、久安5年(1149)と2度の大火により神護寺は衰退する。
その後、那智の滝をはじめ諸国行場で荒行をつんだ文覚上人が仁安3(1168)神護寺を訪れ、その荒廃を嘆いて再興を大願。寿永3年(1184)、源頼朝の援助を受け復興を果たす。
平家物語によれば文覚は、管弦が行なわれている席で勧進帳を読み上げ、後白河法皇に寄進を誓願。警護の武士と乱闘を起こし罪を負うが、それにも懲りず寄進を求めたため伊豆に流された。
伊豆流罪5年後の治承2(1178)に赦されて神護寺に帰り、ふたたび後白河法皇に訴え、伊豆流人時代親交を深めた源頼朝の後ろだてもあり、寄進を受けるのに成功し、大規模な伽藍の復興を実現した。
しかし、応仁の乱(1467~77)で大師堂を残して焼失、その後、天文16年(1547)の兵火によってことごとく炎上した。元和9(1623)龍厳上人のとき、楼門、金堂(現在の毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で金堂、多宝塔が新築され現在の形になった。
文覚上人は出家前は遠藤盛遠(もりとう)という武士であった。
芥川竜之介の短編小説「袈裟と盛遠」、衣笠貞之助の映画「地獄門」でも描かれているように、盛遠には、横恋慕をした源渡の妻、袈裟御前に夫を殺してくれと頼まれ、殺してみればそれは実に夫の身代りになった袈裟御前であった。
愕然とした盛遠、世を儚んで出家したという話が伝わる。弟子には文覚上人を師として生涯離れなかった学僧浄覚上人、栂野尾高山寺を興した明恵上人らがいる。
■楼門:仁王ではなく、四天王のうちの増長天、持国天が安置されている。藤原時代の作 といわれている。
■両界曼荼羅(国宝):現存最古の両界曼荼羅遺品で、空海が中国(唐)長安の青龍寺に て師の恵果より付法の証として授与され、大同1年(806)に日本に持ち帰った。原 本は早くに損傷を受け、空海が転写したと伝わるが、いずれも失われている。
現在伝わる高雄曼荼羅は、神護寺略記によると、淳和天皇御願により制作されたという。天長年間後半(829-34)の制作になると推定され、当時神護寺に携わっていた空 海がかかわっていたと考えられている。
■平重盛像、源頼朝像、藤原光能像(いずれも国宝):日本の肖像画の代表的傑作とされて いる。
■了々軒:奴葺(やっこぶき)の大屋根に銅板葺の深い庇の八畳広間の茶席で、山口玄洞の寄進。五畳の水屋、四畳半と三畳の控室が付設。
■大師堂:徳川時代初期に再建されたもので細川忠興が造営したといわれる。
桁行左側面四間、右側面五間、梁間三間という変則的な柱配置を持つ。一重入母屋造柿 葺。内陣は広く、四本柱は外周の柱筋とは無関係に立てられている。後部壁面中央には 桟唐戸を吊った円柱により厨子を入れた小室がつくられている。
■金堂:昭和10年(1935)山口玄洞の寄進で新築。内陣厨子のなかには本尊薬師如 来立像が安置され、薬師如来像は神願寺以来の本尊で平安初期、貞観時代の彫刻の最高 傑作とされる。如来形でありながら三屈法(頭と上半身と下半身を三段に屈折させた、 インド彫刻によく見られる形)をとる日本唯一の仏像例。
■本堂:金堂が再建されるまでここが金堂と呼ばれ、本尊薬師如来像を安置していたが、 現在は毘沙門天立像(重文)が安置されている。元和9年(1623)に始まる江戸時 代の復興期の建築。
■梵鐘:銅鐘(国宝)は三絶の鐘と呼ばれ、日本3名鐘の1つに数えられる。
金堂を出たら、趣深い杉や紅葉などの木々を通り抜けて、見晴らしよい茶屋の近くへ。
清滝川を眼下に見下ろし、絵に描いたような景色が広がる。歌謡曲の歌詞にもあったが “とんびがくるりと輪を描く”のも見える。ここでは平安貴族が厄除けの願いを込め て、瓦を投げたという言い伝えにちなんで、茶屋で2枚100円にて買い求め、見晴ら し台から投げることができる。鳶を追いながら飛んでゆく瓦、なかなか痛快だ。
なお、毎年5月1日から5日まで、宝物の虫払いが行われ、屋内に広げられる宝物を見 学できる。通常参拝とは別料金。
所在地:京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5。
交通:JR「京都駅」から「高雄方面行」のJRバス約50分「山城高雄」下車、徒歩20~30分。