古都の南端、名神高速道路京都南インターチェンジより目と鼻の先に位置する城南宮は、「国常立尊」(くにのとこたちのみこと)、「八千矛神(=大国主命)」(やちほこのかみ)、「息長帯日売命(=神功皇后)」(おきながたらしひめのみこと)の三柱の神様を中心に祀っている。
社伝によると、はるか昔、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され戦が終わるとその御旗は宮中で大切に保管していた。そして平安京に都
を定めた時その御旗を城南のこの地に御神体として納め、国土守護の神、国常立尊と神功皇后の御霊をあわせ祀って都の守護神とした。
城南宮が鎮まる鳥羽の地は、平安京の表玄関に当たる交通の要衝であり、また鴨川に臨む水郷の景勝地でもあった。やがて貴族の別荘が建てられるようになり、平安時代の末には白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を執り行った。その後、鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり華やかな賑わいを見せたという。
全国的に知られている「曲水の宴」や、離宮の池に舟を浮かべて四季の移ろいを賞でたり、競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が行われた。平安後期の右大臣・藤原宋忠の日記「中右記」(ちゅうゆうき)に、永長元年(1096)、白河上皇がた鳥羽離宮で「流鏑馬」を催したとあり、日本で最古の流鏑馬と言われている。
また、後白河法皇は今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を残したが、その中に「いざれこまつぶり城南寺の祭り見に…」というのが記されている。白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮を選び、ここに7日程籠って身を清め、道中の安全を祈願して熊野詣に旅立ったといい、当宮の方角の災いを除く方除、旅行安全の信仰もこの時代にはすでに始まっていたのではなかろうか。
歴史的にも大きな転換を見つめた地点ともなっており、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南宮の祭礼の流鏑馬揃えと称し兵を集め「承久の乱」を起こし、貴族社会から武家社会へと転換していくことになった。時代は移ろい慶応4年(1868)1月3日、城南宮の参道に並べられた大砲が火を噴き、鳥羽伏見の戦いが勃発、武家社会から明治へと転換、当宮は、大きな社会の転換の舞台ともなった。
では、当宮の名庭を紹介をしておこう。
社殿を取り囲むように広がる楽水苑は、伏見名水である地下水を引き入れた清々しい庭園である。春の山・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離宮の庭と趣の異なる5つの庭からなっている。
■源氏物語花の庭
源氏物語に登場する約一○○余種の花木が植栽され、雅の心に浸ることができる。春の山は、椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が彩る。6月の末には、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われる。白河上皇は城南離宮を築く際に、源氏物語に描かれた光源氏の六條院をモデルにしたといわれている。
■平安の庭
社殿を背景に広がる池に、清らかな水が滝と遣水から流れこんでおり、池の周囲には、オミナエシや萩、リンドウが咲き目を楽しませる。城南離宮は大半を池が占め、舟を浮かべることができるように深く掘り下げ、またその土で中ノ島を築き、各地から名石を集めて景色を整えたという。そして管絃の遊び、花見の宴、和歌の会と四季折々に風流を楽しんだといい、ここで、4月29日と11月3日、王朝の雅を今に伝える「曲水の宴」が行われている。
■室町の庭
池泉廻遊式の静寂な庭に茶室(楽水軒)が建ち、その前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石など石組みが配されている。入口に雌滝、奥まったところに雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、そして色とりどりのツツジが賑わいを添える。
■桃山の庭
枯山水様式で、桃山時代の絢爛な風様を醸している。紅枝垂れ桜は見事で、花の咲く頃は多くの観光客とカメラ愛好家でひときわ賑わいを増す。
■城南離宮の庭
城南の地が最も華やかであった離宮時代を偲ばせている枯山水庭園。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を象徴しているという。
所在地:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
交通:JR京都駅から地下鉄あるいは近鉄で竹田駅下車、⑥出口より徒歩15分、④出口より市バス南系統5分。
社伝によると、はるか昔、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され戦が終わるとその御旗は宮中で大切に保管していた。そして平安京に都
を定めた時その御旗を城南のこの地に御神体として納め、国土守護の神、国常立尊と神功皇后の御霊をあわせ祀って都の守護神とした。
城南宮が鎮まる鳥羽の地は、平安京の表玄関に当たる交通の要衝であり、また鴨川に臨む水郷の景勝地でもあった。やがて貴族の別荘が建てられるようになり、平安時代の末には白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を執り行った。その後、鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり華やかな賑わいを見せたという。
全国的に知られている「曲水の宴」や、離宮の池に舟を浮かべて四季の移ろいを賞でたり、競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が行われた。平安後期の右大臣・藤原宋忠の日記「中右記」(ちゅうゆうき)に、永長元年(1096)、白河上皇がた鳥羽離宮で「流鏑馬」を催したとあり、日本で最古の流鏑馬と言われている。
また、後白河法皇は今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を残したが、その中に「いざれこまつぶり城南寺の祭り見に…」というのが記されている。白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮を選び、ここに7日程籠って身を清め、道中の安全を祈願して熊野詣に旅立ったといい、当宮の方角の災いを除く方除、旅行安全の信仰もこの時代にはすでに始まっていたのではなかろうか。
歴史的にも大きな転換を見つめた地点ともなっており、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が城南宮の祭礼の流鏑馬揃えと称し兵を集め「承久の乱」を起こし、貴族社会から武家社会へと転換していくことになった。時代は移ろい慶応4年(1868)1月3日、城南宮の参道に並べられた大砲が火を噴き、鳥羽伏見の戦いが勃発、武家社会から明治へと転換、当宮は、大きな社会の転換の舞台ともなった。
では、当宮の名庭を紹介をしておこう。
社殿を取り囲むように広がる楽水苑は、伏見名水である地下水を引き入れた清々しい庭園である。春の山・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離宮の庭と趣の異なる5つの庭からなっている。
■源氏物語花の庭
源氏物語に登場する約一○○余種の花木が植栽され、雅の心に浸ることができる。春の山は、椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が彩る。6月の末には、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われる。白河上皇は城南離宮を築く際に、源氏物語に描かれた光源氏の六條院をモデルにしたといわれている。
■平安の庭
社殿を背景に広がる池に、清らかな水が滝と遣水から流れこんでおり、池の周囲には、オミナエシや萩、リンドウが咲き目を楽しませる。城南離宮は大半を池が占め、舟を浮かべることができるように深く掘り下げ、またその土で中ノ島を築き、各地から名石を集めて景色を整えたという。そして管絃の遊び、花見の宴、和歌の会と四季折々に風流を楽しんだといい、ここで、4月29日と11月3日、王朝の雅を今に伝える「曲水の宴」が行われている。
■室町の庭
池泉廻遊式の静寂な庭に茶室(楽水軒)が建ち、その前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石など石組みが配されている。入口に雌滝、奥まったところに雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、そして色とりどりのツツジが賑わいを添える。
■桃山の庭
枯山水様式で、桃山時代の絢爛な風様を醸している。紅枝垂れ桜は見事で、花の咲く頃は多くの観光客とカメラ愛好家でひときわ賑わいを増す。
■城南離宮の庭
城南の地が最も華やかであった離宮時代を偲ばせている枯山水庭園。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を象徴しているという。
所在地:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
交通:JR京都駅から地下鉄あるいは近鉄で竹田駅下車、⑥出口より徒歩15分、④出口より市バス南系統5分。