「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「相国寺」(しょうこくじ)

2006年05月27日 18時48分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 同志社大学学舎の北側に、臨済宗相国寺派本山相国承天禅寺がある。通称「相国寺」で知られる当寺は、釈迦如来を本尊として祀り、永和4年(1378)、室町殿(花の御所)を造営した足利義満(室町幕府三代将軍)によって創建され、後に、夢窓疎石の弟子・春屋妙葩(善明禅師)、義堂周信が、花の御所の東方に大禅寺の建立を志し、明徳3年(1392)から10年の歳月をかけて相国寺を完成させた。春屋妙葩(善明禅師)は亡師夢窓を開山とし、自らは2世となった。至徳3年(1386)足利義満は、京都五山の座位を定め、南禅寺を天下第一の別格として五山の上におき、「天竜・相国・建仁・東福・万寿」の5寺を五山とした。義満は、春屋妙葩の死後は義堂周信に参禅し、政治の要道をも聞いたという。

 当寺は応永元年(1394)に炎上したがただちに再建され、100㍍の大塔も完成したものの、1403三年に落雷のため鐘楼とともに炎上し、以後再建されなかった。高さ70㍍の五重塔は明徳4年(1393)6月立柱した。
 当寺は幕府の援助で栄え、法系にとらわれずに一山一寧系の太清宗渭・雲渓支山らの名僧を住持としたが、応永4年(1397)絶海が住持となってからは夢窓疎石系に限られた。また歴代の住持は学問や詩文にふけり文運は栄えたが禅の法脈は衰退していく。応仁の乱では東軍が西軍に買収された僧の放火で全焼した。

 天正12年(1584)に、中興の祖といわれる西笑承兌が入寺し、豊臣・徳川両氏や後水尾天皇の援助を得てしだいに復興したものの、天明の大火で法堂・浴室・勅旨門を残して全焼。文化年間(1804~18)に再建された。幕末には白隠系の天真集膺・大拙承演(鬼大拙)を招さ、明治に入って独園承珠・東嶽承峻(大拙系)・独山玄義らの名僧が継いだ。明治以降多くの塔頭を廃して寺域も5分の1になった。
 法堂(国重文)は無畏堂ともいわれ、豊臣秀頼の寄進である。桃山時代の禅宗仏堂の代表作といわれ、内部は瓦敷、中央須弥段上に本尊釈迦如来を安置し、天井の龍は狩野光信筆といわれる。開山堂は夢窓像を安置し、戸襖・杉戸は伝円山応挙筆、方丈の襖絵は原在中の筆になる。

 相国寺はまた水墨画と関係が深く、初め禅僧が頂相(肖像画)を描き、画禅一致が唱えられたが、やがて専門の画僧が出た。水墨画の確立者といわれる如拙は相国寺の僧で、その門下に周文がおり、水墨画の大成者とされる。その門下に小栗宗湛と水墨画の最高峰の雪舟がいる。宗湛は周文とともに将軍に絵師として仕えた。雪舟は相国寺に入って僧録司春林周藤に師事し、中国に渡って禅と絵を修行。帰国後大分・山口などに住んだ。
 では、人気の塔頭についてご紹介しおこう。

■林光院
 本尊は地蔵菩薩で、応永年間(1394~1428)に足利義満が子の義嗣の牌所とし
て西ノ京に創建、開山には夢窓を追請した。のち二条に移り、秀吉が相国寺内に移した。
 庭の「鴬宿梅」呼ばれる梅花は、『大鏡』や『十訓抄』に村上天皇の天暦年間
(947~957)に清涼殿の梅が枯れたため、西ノ京にあった屋敷から求めて移植した。その際、枝にさげられていた短冊に「勅なればいともかしこし鴬の宿はと問はば如何
答へむ」としたためられてあり、これが紀貫之の娘の歌であったと伝わっている。また宗旦稲荷は、境内に住む白狐が茶人千宗旦に化けて茶を点じたという伝説をもち、開運の神として信仰されている。

■普広院
 応永年間(1394~1428)足利義満が相国寺九世観中中諦に帰依して建立した乾徳院が前身で、嘉吉元年(1441)足利義教の菩提寺となり、その法号をとって普広院と改称した。

■大光明寺
 文和年間(1352~56)後伏見天皇の女御広義門院が伏見桃山に創建した伏見宮家菩提所で、文禄3年(1594)年に奉書が再建し、西笑承兌を住持とした。元和元年(1615)相国寺山内に移り、のち数度被災して明治初年に廃絶。現在の当寺は1620年以降伏見宮家菩提所となっていた心華院が、明治39年(1906)に改称したもので絹本著色羅漢像(国重文・鎌倉)がある。―(京都府の歴史散歩:山本四郎著より引用)―
 
 交通:地下鉄今出川駅下車、徒歩約5分。市バス同志社前下車、徒歩約5分。

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「禅定寺」(ぜんじょうじ)

2006年05月19日 18時32分22秒 | 古都逍遥「京都篇」
 初冬の暖かな陽射しのなか、国道24号線を奈良方面に向かい、山城大橋の交差点を府道783号に入り、一路信楽方面へと車を走らせた。宇治茶で名高い宇治田原町の農村をひた走り、長山口の交差点を左折して大津方面へと方向を変える。ほどなく走ると禅定寺駐車場と書かれた大きな看板が見え、車五台程しか置けない駐車場に置く。
 心地よい初冬の冷んやりとした風を背に受けながら細長い参道の階段を登ると、丘陵に藁葺きの本堂が見える。「わおー、これぞ山寺」、京都洛中の名刹とは異なって何とも開放感に溢れ、清々しさを覚える。山門の脇には橙色に色づいた柿の実が藁葺きの本堂と調和し、山下清画伯の画材にでもなりそうな素朴さがある。

 禅定寺の創建は、東大寺の別当であった平ら崇上人(へいそしょうにん)が、正暦2年(991)に私領の山野をト定して、堂を建て、十一面観音像を安置したのに始まり、造営に5年の歳月を費したという。ついで長保3年(1001)に、上人は杣山(そまやま)一千町を含む田畑をこの寺に施入したという。
 ここ宇治田原は、古来より宇治田原越え・禅定寺越と称して、山城国宇治より近江の瀬田または信楽地方に抜ける間道で、とくに平安京以前には、近江ひいては東海道に通じる軍事上の要路として重要視された古道である。

 当寺は平安時代には平等院の末寺となり、摂関家の庇護のもとに発展したが、鎌倉、室町、戦国時代と経て衰退していく。延宝8年(1680)加賀国大乗寺の月舟禅師(げっしゅうぜんし)を迎え、加賀藩の家老・本多安房守政長の援助を受け再興し、中興の祖と言われている。
 この山寺で、と驚嘆したのが宝物殿に安置されている仏像であった。日光・月光、文殊菩薩騎獅像、四天王立像(四体)延命地蔵菩薩半跏像の見事な彫りと彩色、砂礫の中から宝石を見つけたような感激であった。いずれも重要文化財に指定され、その昔は国宝級とされていたものだった。いずれも一木造で藤原時代のものである。
 当寺で目を引くのがもう一つ、本堂裏の壁面に大涅槃図(平成11年4月8日開眼法要)が描かれている。これは日本中から広く募集し老若男女たちが思いを込めて3年余りの歳月をかけて描き揚げたものである。
 
 交通:京阪電鉄宇治駅から京阪宇治交通バス25分、禅定寺下車。

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「千本釈迦堂」(せんぼんしゃかどう)

2006年05月18日 10時47分50秒 | 古都逍遥「京都篇」
 千本釈迦堂大報恩寺は今から770余年前、鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護をうけ、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されている。京都の町を焼き尽くした応仁の乱でも本堂は焼けなかったのである。これは非常に驚くべきことと言える。何故か。ここ大報恩寺は西陣の只中にあるからだ。つまり、戦闘の中心地であったということになる。それが証拠に大報恩寺の本堂の中にも応仁の乱の際に付けられた戦闘の傷跡がはっきりと残されている。
 また、この本堂の手前の両脇には西軍の大将であった山名宗全所縁の堂宇がある。本陣がこの寺の辺りに置かれたのだという話も聞いた。そうした中で、何度も攻め込まれながら、本堂だけは決して焼失しなかったという。

 義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立した。
 本尊である釈迦如来像にちなんで釈迦堂と云われますが、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)と区別する意味で、千本釈迦堂と呼ばれ、その千本とは近くを南北に走る千本通を指しますが、千本通は平安京の朱雀大路に重なる通りで、いつの頃からか千本通と呼び習わされます。その由来は定かではなく、大路の両側に立ち並んだ千本の卒塔婆に由来するとか、千本の桜とも、いや千本の松並木が連なっていたからだとか、諸説あったりします。朱雀大路の突き当たりには蓮台野(れんだいの)と呼ばれた葬送の地があったとされ、卒塔婆説とも思えるけれど、近くの引接寺の普賢像桜には室町時代に多くの公家達が、この桜を一目見ようと押し掛けたと云う話も残り、こちらもまんざら捨てたものじゃなしの話ですが、この千本とは多いことを形容する言葉のようです。

 千本釈迦堂は「おかめ塚」の話が伝わるお寺としても知られている。義空上人が大報恩寺の本堂を建立するにあたり、当時名大工として名声を馳せていた長井飛騨守高次を総棟梁として選んだ。高次は数百という大工の頭として采配を揮いますが、ある日のこと何を勘違いしたのか、本堂を支える親柱の四本の内の1本を短く切り落としてしまった。材木を新しく取り寄せて組みなおすには、棟上の巡察の期限までには間に合わない。
 途方に暮れる高次に妻の阿亀(おかめ)は、夫の苦悩に心を痛めたおかめは、観音様に「夫の窮地を救ってください、お助けいただけたら私の命はいりません」と願をかけた。すると観音様が現れ棟の組み方のヒントを授けてくれた。
 おかめは、そのことを夫に伝え「柱を短く揃え斗栱(ますぐみ)を入れて高さを合わせればどうでしょう」と言った。そのアイデアもあって今に見る端正な本堂は完成しますが、阿亀は「女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥となる」と自害して果てます。
 今の時代では何ともそぐわない話ですが、封建時代と云う歴史の中での悲劇のひとつです。口碑によれば高次は、亡き妻おかめの名にちなんだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の
冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったと言われている。
 今日、棟上式に上げられる「おかめ御幣」は、おかめの徳を偲び、永久堅固、繁栄を祈るためと言われている。
 端正な本堂と枝垂れ桜 この話は大工達に受け継がれ、江戸時代の半ばには三条の大工、池永勘兵衛が本堂の脇に「おかめ供養塔」を建立した。このことから建築、造園関係の信仰も厚く、そしておかめさんは湯殿を建てて大工達に入浴を勧めたと云う話もあり、銭湯関係者のお参りも多いとか…。

 その本堂は応仁の乱、大永の乱、享保の大火でもその戦禍、災難を免れ、京都に現存する寺院としては最も古い本堂となっている。街中に溶け込んでちょっと判りにくい千本釈迦堂だが、上七軒の交差点から北へ真っ直ぐ徒歩5分ぐらい。この上七軒は京都で最も古い歴史と格式のある花街。祇園などの近世以降の繁栄とは無縁に、西陣の奥座敷として、2月の梅花祭を始め幾多の伝統行事も支えて来た。夏、歌舞練場の中庭にビヤーガーデンが開設され、現役の舞子、芸子が輪番で接客に当り、中年層に人気がある。
では、宝物を少し紹介しておこう。

 まず京都最古の建物、国宝「本堂」は、安貞元年義空上人の建立で、内陣外陣区画の初期の遺構、内陣に内々陣四天柱のある釈迦念仏の道場。正面24.30㍍、側面28㍍。斗栱を施した緩やかで優美な曲線の寝殿造りである。
 国宝「本尊厨子と天蓋」は、高御座式厨子で、天蓋は八葉蓮華文、八方吹返し、周囲に瓔珞をたれる、高御座の大円鏡に代わるもので、釈尊の最高の至誠を捧げた唯一の遺構と伝えられている。
 国宝「本堂来迎板壁仏画」は、現存する鎌倉期の最も画面が広い、原画が剥落し不明の箇所が多いが、前面は四天王、普賢文珠、梵天帝釈。背面は叡山を想定した霊鷲山迦説法図と言われている。
 義空上人の墨書銘のある本堂の棟木と棟札3枚は、国宝に指定されている。重要文化財指定の「本尊釈迦如来像」は、大仏師快慶の高弟巧匠・行快の作、目じり、口元の理智的な作風は快慶の流れをくむと言えよう。もう一点、重要文化財指定の仏像を紹介しておこう。京都に広まった「六道参り」の基ともなった「六観音像」の六体が安置されている。貞応3年(1224)定慶の作で、聖、千手、十一面、馬頭、准胝、如意輪の六観音菩薩像、六体完全な形で残されている。美しい滑らかな肌の材質は檜ではなかろうか。

 所在地:京都市上京区今出川七本松上る。
 交通:京都駅から市バス50、52。阪急大宮駅から市バス8、55。京阪三条駅から市バス10で上七軒下車、徒歩約3分

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「先斗町」(ポントチョウ)

2006年05月16日 18時05分07秒 | 古都逍遥「京都篇」
 先斗町は北は三条通の一筋南より、南は四条通まで、東は鴨川にのぞみ、西は高瀬川に沿うた木屋町通の間にして、南北五百㍍余にわたる細長い街をいい、祇園とともに京都を代表する花街の一つである。
 もともとこの地は鴨川の洲であったが、寛文10年(1670)に護岸工事をおこなって石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ちはじめたが、これらはすべて川原にのぞむ片側のみで、あたかも先ばかりであったから、先斗町と呼ばれたという。
一説によると「先斗」は、織田信長時代ポルトガルの教会が、この辺りにあって、ポルトガル語のポント(先端)・ポントス(先端・先が長いもの)によると言う説もある。この地があたかも、川原の崎であったから、そのころ世に流行した「うんすんかるた」などによって外来語をもじったものだろうともいわれ、諸説明らかではない。この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳2年(1712)の頃といわれ、次いで文化10年(1813)に芸妓渡世が認められた。以来、幾多の変遷をみたが、祇園や上七軒(北野天満宮近く)とともに今なお隆盛を極めている。
 南北につらぬく道はきわめて狭く、紅殻格子の家が両側に建ちならび、東西に五十番まで数える大小の路地がある。新村出博士の「先斗町袖すりあふも春の夜の 他生の縁となつかしみつゝ」なる詠歌は、この細路で舞妓・芸妓さんとすれ違う風情を詠んだのであろう。
 また「かたむけて春雨傘や先斗町(きぬ)」「相触れて春雨傘や先斗町(常悦)」などと幾多の句にもうたわれた。祇園新地の如く格式ばらず、昔から庶民的なところがあり、それが好まれたのだろう。幕末の頃には諸国の浪士も多くここに遊宴し、幾多のロマンスの花をさかせた。
 先斗町歌舞練場は大正14年(1925)に着工し、昭和2年(1927年)に完成。設計は大阪松竹座(大正12年)、東京劇場(昭和2年)などを手がけて劇場建築の名手といわれた大林組の技師、木村得三郎。鉄筋コンクリート造り、地上四階、地下1階で、当時では「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛されたようだ。

 ちなみに私が20年数年来ひいきにしているフランス料理店「ナツカ」があるのもこの先斗町である。家族的なサービスと京風味の仏料理は絶品で多くの人に奨めてきた。昨今は京情緒あふれた老舗料理店が少なくなり、若者好みの西洋料理店や中華料理店、居酒屋風の店などが目立つようになったきた。
 夏になると鴨川べりに川床が設置され、暮れ行く東山をのぞみながら、煌く残照の川面の涼風も心地好く、京料理を楽しむ光景は夏の風物ともなっている。

 所在地:京都府京都市中京区先斗町
 交通:京阪電鉄四条駅下車、4番出口から徒歩5分。阪急電鉄河原町駅下車、徒歩3分。

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「仙洞御所」(せんどうごしょ)

2006年05月13日 11時20分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄丸太町駅をおりて加茂川にかかる橋を西に渡ってしばらく歩くと、仙洞御所の築地塀と見越しの松の緑に出合う。寺院の山門のような寺町御門より御苑に入ると広々とした玉じゃりの道がはるかに続く。そこは都心とは思えないほど静かな空間が広がっており、老人がのんびりと散歩を楽しんでいた。
 私もじゃりを踏む心地好い感触を味わいながら雅人気分でそぞろ歩くと、大宮御所の正門が見えてきた。京都御所のはす向かい当る大宮御所には宮内庁の警備員2人が門を固めており、ここを入ると左手が大宮御所、右手が仙洞御所となる。
 当御所は、宮内庁が管理する桂離宮、修学院離宮と並ぶ宮廷文化の遺構で、両御所を含めて総面積九万1000㎡余りある。

 仙洞とは、上皇の御所のことで、寛永7年(1630)、明正天皇に譲位した後水尾上皇のため徳川幕府が御所として造営されたもので、それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后・徳川二代将軍秀忠の娘・和子)の女院御所も建てられた。
 大宮御所は、皇太后の御所のことで、現在の大宮御所は、慶応3年(1867)に英照(えいしょう)皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営された。
 仙洞御所は、後水尾上皇の時代に3度焼失し、都度再建されてきたが、以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の御所として使用された。嘉永7年(1854)の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に再建がなされなかった。そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭(せいかてい)、又新亭(ゆうしんてい)の2つの茶室以外に御殿などの建物はなく、南北に広がる優美で気品のある庭園が王朝の面影を残しているだけである。

 御所庭内には大宮御所御車寄(おくるまよせ)の右手の小門から入り、小橋を渡ると六枚橋という石橋に行き着く。この周辺を阿古瀬淵といい、かつて紀貫之の邸宅があったと伝えられ、淵の名前も紀貫之の幼名「阿古久曽」(あこくそ)に由来しているそうだ。北池を右に回遊して行くと白鷺が舞うという鷺の森に、それを抜けると紅葉橋に出合う。この橋を区切りにして右が女院御所の庭だった北池、左手が仙洞御所の南池となる。高雄紅葉が繁り秋にはさぞ美しかろうと想像を働かせる。南池に沿って歩くと天の橋立を連想させる八ッ橋がある。

 では庭園について説明しておこう。南北庭園は、仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7年(1630)の御所の完成に引き続いて作庭したもので、案内をしてくれた宮内庁職員の説明によれば、仙洞御所・女院御所ともに石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池泉回遊式庭園であったが、後水尾上皇がその直線的な感覚を好まず、完成して程なく作り直させたとかで、遠州当時の遺構は南池東岸の30mほの一部に留めているに過ぎないとか。そういえば後水尾上皇が作らせた修学院離宮も優美な曲線とふくらみが印象的だった浴龍池があった。
 この庭は南庭と北庭からなっているが、元はそれぞれ独立したもので囲いで区切られてそうで、北庭が女院御所(現大宮御所)の敷地、南庭が仙洞御所の敷地内であったという。1747年に囲いをとり南北を結合させたという。
 南庭池にはこぶし大のふくよかな形の良い石が敷き詰められており、その様は白浜をも連想させる。このこぶし大の石は一升石と呼ばれ、アヒルの玉子のような形をしたものや、長方形の平らな小石もあり、その数は約11万個以上もあるという。この州浜の石は、小田原藩主大久保侯が献上したものと伝えられるもので、小田原の領地にある海岸にて、石1つにつき米1升を与えて集めさせたところから、俗に小田原の1升石とも言われている。たびたびの造営により庭園は拡張され、2つの池は堀割によって池水が通じ、緊密な一体感を持つようになる。そして、その長い年月を維持管理していくなかで、御所様
といわれる様式を確立し、仏閣などの寺様とは異なる優雅でかつ繊細な趣きをつくり出していった。 御所は広大な京都御苑の一部にあり常に湿潤な環境にあるせいか、樹木が作る影は霞みがかかったように見え、ことに時雨れている時などは山紫水明を感じさせてくれるであろう。
 中島にかかる八ッ橋には藤棚をかけ渡してあり、西半分が下がり藤、東半分が上がり藤と称され、藤の花とツツジとが調和して花開くように配置されていた。そして池畔には杜若が彩りをそえている。この水源は元は加茂川の水を引いていたが、東山蹴上疎水が完成するとその疎水の水を地下を通して引いたという。しかし現在は井戸を掘り地下水を利用しているそうだ。

 池越しに望む醒花亭(せいかてい)は、文化5年(1808)に再建された柿葺(こけらぶき)の茶室で、命名は「夜来月下に臥し醒むれば花影雲飛して」という李白の漢詩文から引用したという。付書院を備えた書院と入側の向こうに、蹲踞(つくばい)や、加藤清正が朝鮮より持ち帰り献上したという燈籠などが配された閑静な庭が広がっている。
 大宮御所はかつて英国エリザベス女王やチャールズ皇太子とダイアナ妃が来日した折、京都での宿泊所にあてられたそうだから、この庭園をどのように感じられたのだろうか。御所には外国要人が宿泊されてもいいようにベッドも置かれた洋風の間に改造しているという。

 所在地:京都府京都市上京区京都御苑3。
 交通:JR京都駅より市営地下鉄烏丸線京都駅から徒歩1分、京阪丸太町駅より徒歩10分。

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「芬陀院」(ふんだいん)

2006年05月12日 09時46分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東福寺の塔頭の一角をなす芬陀院は「雪舟寺」と称して親しまれている。当院は後醍醐天皇の元享年間、時の関白一条内経公が創建し、東福寺開山聖一国の法孫、定山祖禅和尚によって開山した。京都最古の枯山水庭として知られる雪舟寺は、その名のとおり、聖画、雪舟等楊禅師が作庭したと伝えられている。 
 雪舟と言えば、幼少の頃、涙で画いた鼠が動き出したという逸話は余りにも有名。時の関白太政大臣、桃華殿一条兼良公(1401~1481年)の趣向により、雪舟に当寺の庭を造らせたもので、南庭の鶴島と亀島を立体的に配し、特に二重基段の亀島に中心石を置き、鶴島は折鶴を表徴させてある。この南庭に反して東の庭は平面手法で線をもって鶴島を近景とし、鶴島を中心に蓬莱の連山を表わしている。
 南庭の亀島にも鼠の逸話に似た話が残っており、亀石が動いたとも伝えられている。東庭は図南亭(茶室)の丸窓から眺める景色が美しく、「京都の美のかたち」として産経新聞にも紹介されたものだった。 芬陀院は、一条家の菩提寺にもなっており、第14代目にあたる一条恵観公は茶人としても風雅を好み、茶室の脇の小庭には公の愛好の手洗鉢が現存している。 

 当院を訪ねた時は、肌寒さがまだ残る2月初旬であった。南庭の一隅に咲く山茶花が紅の花をつけ、海を表わす白砂に花びらが散り漂っている様は美しい。 

 交通:京阪電鉄京都線・JR奈良線東福寺下車、徒歩5分。

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「赤山禅院」 (せきざんぜんいん)

2006年05月07日 17時54分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 延暦寺の塔頭のひとつである赤山禅院は、修学院離宮と隣接する比叡山の西の裾野に建つ。創建は仁和4年(888)で、天台座主の安慧(あんね)が、天台宗の鎮守神として赤山明神を祀ったのがはじまり。赤山明神は陰陽道の祖神で、中国の泰山府君(たいざんふくん)のことで、昔から商売繁盛の神として知られる。現在は都七福神の福禄寿の寺で、御所の東北にあたり表鬼門に位置するため拝殿屋上には神猿が鎮座し、古来、方除けの信仰も厚い。

 心静かな静寂を求めるなら、当院がいい。参道には毘沙門天(びしゃもんてん)や福禄寿天(ふくろくじゅてん)など七福神の幟が立ちならび、賑やかな雰囲気ですが、参道の樹木には小鳥たちがさえずり、心が穏やかになる。境内にも木々が茂り、秋ともなれば銀杏や楓が、黄色に赤にと染めあがり、池の畔の野点(のだて)ふうの茶席は風雅な雰囲気
を醸し出している。
 樹木が茂る参道を上がり、左手の階段を少し登ると正面に脇殿(拝殿)がある。境内右手には不動堂。不動堂の前には大きな念珠の輪があり、呪文を唱えくぐり抜けると魔除けとなる。
 境内右手に地蔵堂、弁財天、脇殿の後方に、垣に囲まれた本殿があり、その前にも念珠の輪が設置されている。本殿後方には、小川を挟んで稲荷社。境内右後方に福禄寿像を祀る福禄寿殿があり、そのそばの階段上には金神社や歓喜天、相生社などがあり、七福神のすべてを一巡することができる。
 面白い言い伝えを紹介しておくと、この赤山禅院に「申の日の五日」に詣でた人たちが「赤山さんは掛け寄せ(集金)の神さんや」と囁き出して、滅多に無い「五日(何時)の申(猿)の日」が、毎月五日講の行事になって、赤山さんにお参りしてから集金に走り出した事から、商い人の「五十(ごと)払い」が、始まったという。拝殿の屋根の上には、鬼門封じとして猿の置物が置いてある。 そして、夜に逃げ出さないように網で囲んである。

 いにしえ中国では、「邪気を払う」節日(せつじつ)として、端午の節句(5月5日)は、特に五午(ごご)または、重五(じゅうご)といって重んぜられていた。老若男女を問わず、5月5日の節日には薬草を採り、「蓬の人形」を門にかけ、菖蒲酒を飲み交わし不老長寿を祈念したとある。昔から日本でも、3月3日の「桃の花と流し雛」、5月5日の「菖蒲(尚武)の花と鯉のぼり」には、子供たちの健やかな成長への両親の思いが込められている。
 当院の「赤山明神」は朔日(さくび・ついたち)より30日迄の日々を守護(しゅご)する30番神の中で、5日の日を司(つかさど)り、この日は子供と詣(もう)でます。この日に行われる祭事が「端午節句・大護摩供」(だいごまく)で、午前9から。法要は午後3時から修学寺本堂で行なわれる。
 毎年11月1日より30日まで、紅葉祭りが催され、お茶処(おちゃどころ)が設けられ露店が並び大勢の人が訪れる。

 所在地:左京区修学院開根坊町18。
 交通:叡山電車で修学院下車、徒歩約20分。市バスで修学院離宮道下車、徒歩約20分。

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「青蓮院門跡」(しょうれんいんもんぜき)

2006年05月06日 07時32分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東山山麓一帯は古刹・名刹が数多くあるところだが、円山公園でひと休みし知恩院の前をそぞろに歩きながら蓮如上人生誕の寺を過ぎると、天台宗の京都五箇室門跡の1つ「青蓮院門跡」の天然記念物に指定されている大楠が出迎えてくれる。五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の5ケ寺を指している。門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきた寺で格式が高く、御殿のような趣を持った、上品で優しい雰囲気が漂っている。「青蓮」とは、青く澄み切った如来の眼から由来している。

 比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開山したが、その際、お堂の他に僧侶の住まいの『坊』をいくつかお建てた。そのひとつに「青蓮坊」というのがあり、それが当院の始まりだといわれている。青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第3代門主慈円(じえん)(慈鎮和尚)の時。慈円は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡した。
 また、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致した。天明8年には、大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難されたことから、青蓮院は粟田御所と呼ばれたという。

 慈円が、法然(ほうねん)(源空)を庇護して、自分の弟子である証空(しょうくう)や親鸞(しんらん)が、法然の弟子になるのを黙認し、専修念仏に寛大なところは浄土教の基礎が天台にあったからであろう。親鸞が祖師である本願寺の法主は、青蓮院で得度をしなければその資格が得れなかったのは明治の時代まで続いた。
 青蓮院の始まりは第48代天台座主行玄(ぎょうげん)大僧正からであり、青蓮院門主第一世は行玄である。行玄からその座を譲られた第2世門主覚快(かくかい)法親王(ほっしんのう)は、鳥羽天皇の第七皇子で、行玄が鳥羽天皇の帰依を受けて皇子を弟子にした事で青蓮坊の里坊を三条白川に白川坊を造営し青蓮坊に因み青蓮院としたという。また青蓮院は明治五年、日本最初の公立病院がおかれた所としても知られている。

 では、見所、宝物などを少し紹介しておこう。
 まず、門前の名木「楠」。親鸞聖人御手植と伝えられ五本あるが、京都市の登録天然記
念物指定を受けている。大楠の懐に抱かれると夏なお涼しく、極楽の境地に浸れる。
 国宝「青不動明王二童子像」は、通称「青不動」と呼ばれ、日本三不動の1つとして平安時代から篤く信仰されてきている。日本三不動の後の2つは、高野山の赤不動・三井寺の黄不動。(曼殊院にも模写黄不動[国宝]がある)青不動は、信仰の上でも、美術的にも、史料的にも、正に現存する仏教画のなかでも至高のものと云える。平安時代の飛鳥寺玄朝によって描かれたといわれ、安然(あんねん)の不動十九観を忠実に描写したものと伝えられている。たいへん大きな画像で、憤怒の表情にものすごく迫力がある。

 青蓮院の庭園は池泉回遊式の庭で、四季折々にそれぞれ異なった美しさがある。「龍神池」は室町時代の相阿弥の作と伝える庭園。粟田山を借景にしてその山裾を利用した幽邃な趣の庭である。池の対岸南に高く石積みした滝口を中心として、東側にかけて柔らかな曲線をえがいた築山が設けられ、その北側に好文亭が建っている。池を龍心池といい、反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝を洗心滝という。これらの配置は誠に妙を得、意をこらしたものである。
 好文亭の入口の門を背にして眺める「小御所」は、東山の「自然の山麓」が左側に迫って来て、自然と人工の巧みな融合を見せている。右端置かれた自然石の手水鉢は「一文字手水鉢」といい太閤豊臣秀吉の寄進である。ここの紅梅は、3月から4月にかけて、美しく咲き誇り、それが手水鉢の水面に写り見事なもので、写真愛好家ならずとも人気が高い。
 また、叢華殿の東側に江戸時代初期の小堀遠州作と伝える庭園があるが、その中でも好文亭裏側山裾斜面から一面に「霧島つつじ」が植えてあり、5月の連休の頃、一面を真っ赤に染める。このことから「霧島の庭」とも云う。この庭は相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭でもある。
 「好文亭」は、後桜町上皇が当院を仮御所として使用の際、使った学問所であり、明治以降茶室として活用していたが放火により平成5年に焼失し、平成7年秋に復旧落慶した。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造である。四畳半の茶室3部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。障壁画13画は上村淳之先生の御奉納による花鳥図。
 「宸殿」は御歴代天皇の御尊碑と歴代門主の位牌を安置し、主要な法要を行うのに用いられている。宸殿前に「右近の橘」、「左近の桜」を配するのは、御所の帝の前、先帝を祀るところに在る物で、この建物もその意味を持っている。御所禁裏の事であるが、左右の近衛兵が居る二本の木を示す(禁)その後ろ(裏)に帝が居られる所を禁裏と称して、御所以外で右近左近の木は配するところは限られている。杉苔に覆われた宸殿の前庭は本来白砂を敷いていたものである。宝珠の付いた右の堂は熾盛光堂といい、当院の本堂で天台宗の四大秘宝の一つである熾盛光法の本尊を祀っている。親鸞聖人の得度の場所でもある。
 「浜松図襖」は徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に、幕府は女御御殿を造営。その御殿が不要になってから朝廷は各所に分割して賜ったが、この宸殿の前身の建物はその一つで絵も建物に付属していた。使用の仕方が変わったために、画面にはその変更の後が見られるが、よく見れば亭々たる赤松の老木の枝振りも古雅に神韻漂渺たるものがある。

 さて、当門跡の飛地境内となる「将軍塚」があるが、桓武天皇が平安建都の際、都の鎮護を呪術的、宗教的にも行おうと、将軍「坂上田村麻呂」の弓を引いている像に甲冑を着せ塚に埋めたと伝えられる「将軍塚」は国家の大事があると鳴動したという伝説がある。
 東山ドライブウェイの頂上に、無料駐車場と展望台があり、その駐車場から北へ100m程行くと門が見え、青蓮院の飛地境内である「将軍塚大日堂」がある。庭内には「将軍塚」という直径20mほど、高さ2mほどの塚がある。境内は外観からは想像もつかないほど広大で四季を通じて、いろいろな美しさを楽しませてくれ、洛中洛外まで展望できる見晴らしは絶景で、特に夜景は夜空を地上に転じたような煌きがある。本紙「将軍塚」で紹介。

 交通:京都市営バス 5・27系統で神宮道下車、徒歩2分。地下鉄東西線 京阪京津線東山駅下車、徒歩3分。

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「西本願寺」(にしほんがんじ)

2006年05月05日 07時37分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
西本願寺は、親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、当初、親鸞の廟所のあった京都東山に創建された。その後、各地に寺基を移したが、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移り、寛永10年(1633)頃にはほぼ今日に近い姿となったという。桃山文化を代表する建造物や庭園が今日まで多く残されており、平成6年(1994)12月に世界文化遺産に登録された。
 
 では文化財、寺宝について紹介しよう。 
 阿弥陀堂(本堂・重要文化財)は、宝暦10年(1760)再建。東西45㍍、南北45㍍、高さ25㍍。中央に阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。御影堂(ごえいどう・重文)は、寛永13年(1636)建立。東西48㍍、南北62㍍、高さ29㍍。中央に親鸞の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事はこの御堂で行われている。現在、修復工事のため閉鎖され、阿弥陀堂と共に平成20年(2008)に修復工事完了の予定となっている。

唐門(からもん・国宝)は、桃山時代の豪華な装飾彫刻を施した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから"日暮らし門"とも呼ばれている。
 御影堂の前にある大銀杏は、根っ子が上に伸びているように見えることから「逆さ銀杏」とも呼ばれており、国の天然記念物に指定されて、秋には天を覆うほど、黄金の小判をふりかけたような銀杏葉に目を奪われる。
 書院は、寛永年間(1624~43)に多く整備され、南側には鴻の間(こうのま)と呼ばれる対面所、西隣りに雁の間(がんのま)、菊の間など、北には白書院がある。対面所と白書院はもともと別棟だったらしく、後に結合されたという。いずれも豪壮な書院造りの代表作。鴻の間は国宝に指定されており、203畳敷きの大広間。上下段の境の欄間(らんま)に雲中飛鴻の彫刻があるので鴻の間ともいう。上段の床には張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれ、障壁画は狩野派の渡辺了慶筆によるもので、華麗で重厚な趣が深い部屋である。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、水晶、珊瑚、銅の錆)、400年の年月を経た今でも美しい彩色を残している。書院「雀の間」(国宝)は、襖に竹やぶの竹の間を飛び交う雀が描かれ、始めは68羽いたらしく、現在では66羽。飛び去った2羽のことを抜け雀と呼んでいる。また、天井には四季の花が36種描かれている。

 雁の間(国宝)は、襖と貼付には飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁を描いて、秋の風趣を表している。また隣接する菊の間との間の欄間には雁を透し彫りにし、隣室の月が眺められ粋な感じがする。菊の間(国宝)は、襖に濃彩で種々の垣根と秋花や菊を描いて、華麗な趣きを漂わせている。白書院(国宝)、賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなり、一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれている。また、三の間は華麗な孔雀を描き、孔雀の間ともいわれ、能舞台にもなる部屋として工夫されている。黒書院 (国宝)は、一般には非公開になっており、粗木を用いた私的な室で歴代門主が寺務を執った所。
 南能舞台(重文)は、現存する最大の能舞台で、毎年5月21日の宗祖降誕会に祝賀能が演じられている。白書院前にある北能舞台(国宝)は、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の墨書紙片があり、日本最古の能舞台と伝えられている。
 特別名勝となっている虎渓の庭(こけいのにわ)は、中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られたといわれる江戸初期の枯山水庭園で、御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れている。

 所在地:京都市下京区堀川通花屋町下ル。
 交通:JR京都駅より市バス、烏丸中央口前バスターミナルから9・28・75(西賀茂車庫行など)に乗車、3つめの西本願寺前で下車。駅から徒歩で15分ほど。

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「清水寺」(きよみずでら)

2006年05月04日 11時02分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 絶景を言い表した「松島や ああ松島や 松島や」という句があるが、古都京都を代表する清水寺もまた「清水や ああ清水や 清水や」と、絶賛の一言でいい表せる光景であろう。
 しかしながら、京都を代表する清水寺も、近年、東京ディズニーランドがオープンしてこの方、日本一を誇っていた観光集客数がディズニーに奪われ、一頃よりは人出が減った。清水寺と参道の商店街は奪回日本一を旗じるしにPR活動に余念がなく、清水寺創建1200有余年、御本尊御開帳の年・平成12年3月3日にあたり、ここ青龍の地に、音羽の滝の故事、夜叉神への畏怖が結びつき、人々の安寧(あんねい)を祈願する青龍会(せいりゅうえ)を結成、観音の化身である青龍の誕生とその開眼の法要が執り行い、以来、観光の呼び物として「青龍会」を催している。

 青龍会は、法螺貝(ほらがい)を吹き先布令(さきぶれ)を行う「転法衆」(てんぽうしゅう)を先頭に、行道(ぎょうどう)を指揮する「会奉行」(えぶぎょう)、そして観音加持を行う「夜叉神」(やしゃじん)、さらに「四天王」(してんのう)が「青龍」の前後を守護し、『南無観(なむかん)・・・』を唱える「十六善神」(じゅうろくぜんじん)の神々が続く勇壮かつ厳かな大群会行(だいぐんえぎょう)の行道である。
 「松風や音羽の滝の清水を むすぶ心は涼しかるらん」と詠まれた音羽山清水寺は、一九九四年にユネスコの世界遺産に登録された。1200余年前、奈良時代の末、宝亀9年(778)に開創。

 奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵に祀たのが起源と伝えられている。その翌々年、坂上田村麻呂公が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。音羽の滝は、清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、「清水寺」の名の発祥である。わが国十大名水の筆頭にあげられている。

 当寺の宗派は、北法相宗(きたほっそうしゅう)、単立の一寺一宗で唯識(ゆいしき)宗ともいう。4~5世紀のインドの仏教学者、弥勒(みろく)・無着・世親が開立した瑜伽(ゆが)派の教理を戒賢論師らが整理し、それを苦難の旅行をして学んだ中国・唐の玄奘三蔵の弟子・慈恩大師が『成(じょう)唯識論』を基礎として開宗した。開創以来、興福寺の北伝の法相宗を伝統してきたが、1965年「北法相宗」として独立。宗旨は、「万法唯識」「三界唯一心。心のほかに別の法はなく、心と仏および衆生、この3つは差別なし」、あらゆる現象(相)は唯(ただ)人間の心のはたらきの反映であるとしている。

 本尊の十一面(四十二臂)千手観音は本堂内々陣の厨子(国宝)内に秘仏として祀られているために、厨子前に本尊の姿を写したお前立ち仏像を安置している。一般の四十臂千手観音とは違って「清水型」観音と呼ばれる清水寺独特の姿をとり、二臂多く、その最上の左右二臂を頭上高く挙げて小如来像を捧戴し、格別の観音力を表現している。 地蔵菩薩・毘沙門天を両脇侍として左右厨子(共に国宝)内に従え、二十八部衆・風神・雷神を眷族(けんぞく、従者)としている。

 知る人ぞ知る本堂と舞台は、江戸時代初期の創建で国宝に指定されている。
優美な起り反り(むくりそり)曲線を見せる寄棟造り、桧皮葺きの屋根や軒下の蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、四囲の音羽山の翠緑と見事に調和している。
寛永10年(1633)再建、正面約38m、側面約30m、棟高18mの大堂で、巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣・内々陣に3分され、最奥の内々陣の大須弥壇上の3基の厨子(国宝)内に本尊千手観音と脇侍(わきじ)の地蔵菩薩・毘沙門天を祀り、錦雲渓の急崖に約190㎡、総桧板張りの「舞台」を懸造りにして張り出し、最高12mほどの巨大な欅の柱を立て並べて支えている。
 「清水の舞台から飛ぶ…」の諺(ことわざ)があるが、舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎。舞台からの眺望は絶景の一語、京洛の街の大半を瞰下し、春は桜、秋は紅葉と、四季の景観はすばらしいく全国屈指の名刹である。

 当寺の正門の仁王門は、室町時代の作(重要文化財)。応仁の乱後、15世紀末に再建された。三間1戸、正面約10m、側面約8.4mの、室町時代の特徴を示す堂々たる楼門で、昔の丹塗りを淡美に残し“赤門”と呼ばれる。正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像が祀られている。
 舞台と共に名勝となっている三重塔(重要文化財)は、平安初期847年創建と伝えられ、現塔は古様式に則って寛永9年(1632)に再建された日本最大級の三重塔で高さ約31m。
 昭和62年(1987)に解体修理され、総丹塗りと共に桃山様式を示す各重横木の極彩色文様を復元した。一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱など密教仏画や飛天・竜らの極彩色で荘厳されている。
開山堂(重要文化財)は江戸時代初期、寛永8~10年(1631~33)の再建で、三間四方、入母屋造り、桧皮葺き。正面に蔀戸(しとみど)を吊り、軒廻りに丹塗りを残している。
 謡曲「田村」に謡われている「田村堂」で、清水寺創建の本願主・坂ノ上田村麻呂夫妻の像を堂内中央、須弥壇上の厨子(重要文化財)内に祀り、併せて清水寺元祖の行叡居士(ぎょうえいこじ)と開山の延鎮上人を奉祀している。
 奥の院(重要文化財)は、本堂と同期の寛永10年に再建され、本堂同様に舞台造りになり、「奥の千手堂」ともいい、千手観音三尊と二十八部衆、風神・雷神を祀る。五間四方、寄棟造り、桧皮葺き屋根は美しい反曲線を描き、とぐみ、蟇股(かえるまた)、長押(なげし)その他、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残している。

 産寧坂(三年坂)の名前に由来ともなっている子安塔(重要文化財)も同時期の再建で、本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に建ち、高さ約15m、桧皮葺きの軽快な三重塔である。子安観音(千手観音)を祀り、名前の通り安産に大きな信仰を集めて来た。
 もう一つ必見すべきものが絵馬(末吉船図・ 重要文化財)である。大阪・平野の豪商であった末吉長方が寛永9年(1632)に清水寺本堂に奉納した扁額式の大絵馬。
幕府から朱印状を得てベトナム貿易に成功して、無事帰国できた事を感謝して奉納したもので、外国人船員を交えて甲板上で祝宴を張っている光景を描いている。
 観光のご参考に「青龍会」の日程をご照会しておこう。
 ◇3月15日~17日、◇4月3日、清水(しみず)の日、◇9月15~17日・午後2時より。なお、年によって日程が変わる場合もあり、問い合わせること。

 交通:京阪電車五条駅下車徒歩25分、阪急電鉄河原町駅より市バス(207番)
 で清水道下車徒歩10分、JR京都駅市バス(206番・100番)五条坂下車徒歩10分

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