「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「誓願寺」(せいがんじ)

2007年04月28日 23時19分00秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「人波におされながらも誓願寺 心にふかく頼みきにけり」(御詠歌)

 阪急京都線「河原町」駅から、京都市内の一番の繁華街を通る四条通を、西の方向に100㍍ほど進むとアーケードのある賑やかな新京極と出合う。その通りに入り、北の方向に約500㍍ほど進むと右手に誓願寺の山門が見えてくる、駅から徒歩約10分ほどの距離だ。

 誓願寺が上京区元誓願寺通り小川町からこの地へ移ったのは秀吉の時代の天正13年であった。秀吉は都の周囲に7里3丁にわたる土居を築き、町中の寺院を洛外へと移した。その時、多くの寺院が東の果てに移され「寺町」というようになった。誓願寺もその時、秀吉の側室京極竜子松の丸殿の篤信によって諸大名の御簾中にも勧進され最も大きな堂塔が12年間かかって建立された。その結構は、まづ表門は六角通り寺町に面し、裏門は三条通りに北面し、南は誠心院に接し境内6千余坪、塔頭寺院18ヶ寺、七道伽藍、三重塔など京都絵図(安永年間)に出ている。
 しかし明治に入り、この辺りに娯楽場繁華街を作ることになり寺町寺院の境内を削り、墓地を整理し塀を取り払い、小川を埋め三条から四条まで開いた、これが現在の新京極である。

 誓願寺はこの新京極の繁華街の中にあり、西門は繁華街に面し、東門は比較的人通りの少ない道路に面している。
 本尊に阿弥陀如来、聖観世音菩薩を安置した浄土宗西山深草派総本山の「誓願寺」は、およそ1300年の昔、飛鳥時代(660年)天智天皇の勅願により奈良に恵陰が開創したと伝えられ、丈六の本尊は当時の仏工彫刻師である賢問子(けんもんし)、芥子国(けしこく)という父子の合作という。延暦13年(794)恒武天皇の時代、平安遷都とともに伏見深草に移され、七道伽藍の結構をそのまま再現し念仏大道場となった。
 昭和7年9月26日夜半火災発生、大本堂焼失、本尊損傷した。昭和30年、元祖法然上人七50年遠忌を期して「本堂再建」にかかり、昭和39年、鉄筋コンクリート造りのモダンな本堂が完成した。

 では見所を紹介しておこう。
■「策伝忌」(醒睡笑著者)
 誓願寺第55世安楽庵策伝上人(落語の祖・1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。

■謡曲「誓願寺」と扇塚
 世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。

■迷子をさがす「月下氷人石」(げっかひょうじんせき)
 その昔、貧苦の中で病気になった武士が、妻に、老父に孝養してくれと言い残して死んだ。妻は、子供がいては孝養できないからと、思い余って子供を捨てた。その時、そこに一本の「卒塔婆」を建て、それに子を捨てることになった切ない思い歌に記した。時を経て、立派な僧侶に成長した息子がこの卒塔婆をたずねてきた。そして彼は、歌の隣に「子を捨てる親を、お前はどんなふうに見ていたか。さて今度は親をたずねる方法を教えて欲しい」という歌を書きつけた。
 その後まもなく、2人は再会を果たし、以後、安楽に暮らしたという。
「月下氷人石」は江戸時代から、迷子さがしの標として用いられてきた。

■縁結びに霊験「お半・長右衝門墓」
 お半・長右衝門は、近松門左衝門の悲恋戯曲「桂川連理柵」で知られる。2人は死後、誓願寺に葬られた。悲恋伝説が若い男女の人気を呼んでおり、修学旅行の女性徒の参拝も多い。
 宝物としては、重要文化財の指定を受けている「誓願寺縁起」3副と「木造毘沙門天立像」が一躯、京都府有形文化財が「地蔵十王図」11副。その他、仏画や祖師像、宸翰(天皇自筆の手紙)、綸旨(天皇の詔)を含む古文書を多数保存している。

 所在地:京都市中京区新京極三条下ル桜之町453。
 交通:JR京都から京都地下鉄烏丸線で「烏丸御池」駅に、ここで地下鉄東西線「醍醐」行きに乗り換え、「京都市役所前」駅で下車、徒歩約5分。
 

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「太田神社」(おおたじんじゃ)

2007年04月26日 17時29分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
上賀茂神社を出ると「明神川」と名を変えた川沿いに、上賀茂神社の神官たちの住まいだった社家(しゃけ)の町並みとなる。
 清流の小川が街並みの情緒をかもし出し、川にかかる小橋、土塀の景観が趣ある美しい町並みを形成している。この奥の突き当たりに太田神社がある。

 「神山や太田の沢のかきつばた ふかきたのみはいろにみゆらむ」 
  藤原俊成の歌である。 

 解説によると「上賀茂神社の神山の近くにある太田の沢のカキツバタに(人が)よくお願いする恋事(いろ)は、この花の色のようになんと一途(一色)で美しく可憐なのだろうか」と言うことだそうだ。
 
 平安時代からこの付近の沢地には、かきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようである。現在でも5月中旬には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く。このかきつばたの群落は、国の天然記念物に指定されており、初夏の時期に訪れるとよいだろう。 
 古くは「恩多社」と呼ばれたこともあり、上賀茂神社の攝社である。祭神は天鈿女命と猿田彦命を祀っており、延喜式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬を受けた神社である。
 
 太田神は一に恩多神といい、天鈿女命を祀る。賀茂に於ける最古の神社で古来長寿福徳の神としての信仰がある。賀茂別雷神社の御鎮座以来攝社として尊信を捧げている。延喜式内の古社である。保安元年2月26日鳥羽天皇の本宮行幸の際、始めて官幣に預り、その後度々この事が行われた。近世以来宮家その他貴顯の信仰篤く、春護成とて御神の春族となって寿命長久を希ふ儀が行われる。

 猿田彦神は天孫降臨に際し、御前を承られた神、道路安全の神として信仰され、また船霊神である船玉神は、航海魚漁守護の神。又岐神は道祖神として崇められている。このように太田神を中心とする三柱の神は、末社福徳神を加えた四柱の神神を総括した神として広く信仰されている。

所在地:京都市北区上賀茂本山。
市営地下鉄「北山駅」下車 徒歩約15分。 

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「梨木神社」(なしのきじんじゃ)

2007年04月21日 21時32分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都御苑の東側、寺町通りに面して建つこの神社は、明治維新の功労者として知られる三条実萬(さねむつ)とその子・実美(さねとみ)が祀られている。
 三条実萬は菅原道眞公の生まれかわりと崇められ、当時「今天神」と人々から尊称されとある。光格・仁孝・孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し王政復古の大義を唱えた。
 安政4年、内大臣に昇り、日米修好通商条約調印問題の勅許拒絶や将軍職に一橋慶喜擁立をはかり、安政の大獄で、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、58歳で死去した。
 実萬の子・実美(さねとみ)は、父の遺志を継ぎ、朝威回復・攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍。しかし、文久3年8月18日の政変で尊皇攘夷運動に加担したとし頓坐、同志の七公卿と共に長州西国に赴かれ(「七郷落」)た。後、維新を果たし、明治新政府において、右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任した。NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」では、実美は表向きの朝廷代表として、線の細い調整型の人物として描かれていた。
 実萬は明治2年その功績が称えられ、天皇より「忠成公」の諡を下賜された。同18(1885)年10月、三条家旧邸の地名にちなみ、実萬と実美(さねとみ)共々を祀る梨木神社が創建された。

 当社は歴史的には新しく文化財的なものはないが、境内に湧き出る「染井の水」は、醒ヶ井(さめがい)、県井(あがたい)とともに京都3名水の1つとして知られており、その中でも唯一現存している名水である。当社は、9世紀後半に栄えた藤原良房の娘明子(清和天皇の母染殿皇后)の里御所の跡地で、この良房の屋敷を染殿と称し宮中御用の染所とし、染井の水が用いられいわれていた。
 環境庁の選定した「日本の名水100選」には、京都では伏見の御香宮(ごこうのみや)神社の湧き水が選ばれているが、ここの水もなかなか美味しい。
 また当社は萩の名所としても名高く、長い参道や境内に萩が咲き乱れる。毎年9月第三土・日曜には「萩まつり」が催され、賑わいをみせる。境内には、上田秋成と湯川秀樹の歌碑がある。

 所在地:京都市上京区寺町通広小路上ル。
 交通:JR京都駅から市バス17・205系統で府立医大病院前下車、徒歩3分。


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「乃木神社」(のぎじんじゃ)

2007年04月19日 23時23分25秒 | 古都逍遥「京都篇」
 乃木神社は乃木希典大人之命(ノギマレスケウシノミコト)を祀る神社で、明治天皇御廟の傍に祀られている京都をはじめ出身地の山口県下関市や北海道、栃木、東京、香川、など全国各地で乃木希典を崇拝する人々によって建立された神社。

 京都の乃木神社は1916年9月に創建されたもので、建立の中心となったのは、実業家村野山人である。村野氏は、薩摩(鹿児島県)出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物で、明治天皇の御大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。その折、乃木将軍夫妻の殉死を聞き、強い感銘を受け、乃木将軍の一周忌に、資財を投じて、乃木将軍の人間性、日本人の心を後世に伝えるため、明治天皇陵の麓に神社を奉建した。
 乃木将軍の辞世の句、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」は、当時の国民に大きな衝撃を与えたと伝わる。

 乃木神社がある伏見桃山御陵の一帯は、豊臣秀吉によって作られた伏見城の跡地の広大な丘陵となっており、夏でも涼しいうっそうとした森林地帯を形成している。
 当社の神門は、樹齢3千年と言われている台湾檜一幹で立てられたという大門である。乃木将軍は、第3代の台湾総督で歴代総督のなかでは、現地の人々からたいへん慕われ、神社創建の際、現地人が進んで大木の切り出しに協力したという逸話が残っている。社頭を守るように将軍の愛馬で、ロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬「壽号」とその子馬「璞号」の銅像が建っている。

 社殿の左に、将軍の幼少のとき暮らした、長府の乃木旧邸が建っている。父・希次は江戸麻布にあった毛利藩に仕える武士で、藩主の要請で藩の改革を提言したところ、そのことを快く思わない幹部藩士に陥れられ、一家は江戸を追われ閉門蟄居を命じられた。その後、国元の長府で暮らすことになったときの住まいを再現してある。
 その隣りに記念館がある。日露戦争のとき第3軍司令部として使用された民家を、神社創建時に、現地で家主から建物全体を買い上げ、そのまま移築したもので、建物の腰石も現地で使われていた物で、五億年以上前に形成されたという「漣痕」模様の化石がみられる成珪岩という珍しい石である。
 宝物館は、将軍直筆の書をはじめ、親交深かった部下や日露戦争で息子を失った親、遺族に宛てた手紙等が展示してある。

 この他の施設を紹介しておくと
■乃木将軍景仰の碑:日露戦争終結後、多数のロシア軍捕虜が大阪浜寺に護送されてきた折、敵味方の別なくステッセル将軍と会見した将軍の心に感服した大阪の一女史に依頼されて徳富蘇峰が揮毫したものである。

■巡洋艦吾妻の主錨:日露戦争時、装甲巡洋艦として活躍した吾妻は、昭和19年引退したが、京都府出身旧海軍従軍者の熱願によって慰霊のモニュメントとして移設、安置された。

■彫刻家たちの作品:後藤貞行(愛馬疾走)梶佐太郎(大瓶七宝焼)小倉祐一(乃木将軍胸像)柚月芳(壽号・璞号)大塚明(大漁船)藤木康成(乃木少年米搗きの像)

 ちなみに、郷里の乃木神社も紹介しておくと、1914四年、郷里に乃木記念館が結成され、幼少時代を過ごした旧家を復元し、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。1920年、乃木記念館に隣設して将軍を祀る乃木神社が造営された。地元では学問の神様として崇められている。例祭は9月13日。東京の乃木神社は、東京都港区赤坂の、乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地に、1923年設立。

 所在地:京都市伏見区桃山町板倉周防。
 交通:京阪電車伏見桃山駅下車 徒歩20分、近鉄電車桃山御陵前下車 徒歩15分。
 JR奈良線桃山下車 徒歩10分。 

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「伏見桃山城」(ふしみももやまじょう)

2007年04月13日 09時25分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 国道1号線や24号線を京都市内に向かって北上していくと、こんもりとした丘陵に天守閣が威風堂々とした姿を見せている。太閤様と呼ばれた豊臣秀吉が、初めて築いたこの城は文禄元年(1592)に始まったが、当初は茶会や宴会を催す隠居城として聚楽第の建物の一部を宇治川沿いの丘陵である指月山に移築して屋敷とした。延べ25万人を動員し、わずか5ヶ月で完成したといわれる梯郭式平山城で、文禄3年(1594)より城下町の町割や開発が急速に進められ、武家屋敷、寺社、町家、道路などの区画整理が行われ、現在の町の原型が形づくられた。外堀が城郭の西側に流れ、町の中心部を囲むように掘られており、その土砂でさらに西部の低湿地帯を埋立た記録が残されている。南北に縦貫する京町通と両替町通が町人居住区の中核を成していた。「豊公伏見城ノ図」によれば、石田三成、浅野長政などの武将の屋敷が記されており、全国から有力大名が集められ、また、大名に呼び寄せられた商工業者も住むようになったとある。

 慶長元年(1596)の大地震により倒壊した。その10日余りの後、やや離れた桃山(現在の木幡山)の地に新たに築城し直され、城内には舟入御殿や茶亭、茶道の学問所が設けられた。その後も工事は続けられているが、秀吉は全ての完成を見ずにこの世を去った。慶長五年、関ヶ原の戦いのとき、家康の家臣鳥居元忠らが守っていた伏見城は西軍に攻められ焼失した(伏見城の戦い)が、2年後に家康により再建され将軍宣下の儀式に使用している。

 江戸幕府の西国支配の拠点となるが、大坂の役の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、幕府にとっての重要性は薄れ、徳川家康の隠居に伴い伏見城の廃止が決定され、1623年に徳川家光の将軍宣下を最期に、正式に廃城が決定し、その後一国一城の制度により取り壊された。
 天守をはじめ一部の建物は二条城に、また京都の社寺などにも移築、石垣は淀城や大坂城の修築に使用され、城門は大手門が伏見区御香宮神社表門や、西本願寺唐門、二尊院総門、上京区観音寺山門など数棟が現存。櫓は福山城伏見櫓と江戸城伏見櫓等が現存しており、横浜市中区の三渓園には諸侯控え室が移築されて残されている。
 廃城後、一帯は「掘内村」として開墾され、桃畑となったため、安土桃山時代の由来とされ、伏見城はこれにより「桃山城」とも呼ばれている。また、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元・吉村家と伝えられている。

 伏見城本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(桃山御陵)とされたため、立ち入りが禁止されているが、1964年、やや離れた伏見城花畑の跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、その目玉として鉄筋コンクリートによって模擬天守「伏見桃山城」が建設された。しかし、キャッスルランドは2003年1月にスポンサーだった近鉄のリストラの一環として閉園したが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れた。平成19年4月1日に伏見桃山城総合運動公園として生まれ変り新たなスタートをきった。

 所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵45。
 交通:JR奈良線桃山駅より徒歩10分、京阪、近鉄丹波橋駅から徒歩15分、近鉄桃山御陵前駅から近鉄バス5分伏見桃山城行き、伏見桃山城下車すぐ。

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「六角堂」(ろっかくどう)

2007年04月06日 00時24分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
「わが思う心のうちは六(むつ)の角 ただ円(まろ)かれと祈るなりけり」(御詠歌)

 六角堂は、「姉三六角蛸錦」の数え歌に出てくる、三条と四条の間にある六角通りに面している。烏丸通りから読売新聞京都ビルの交差点の六角通りを東に入ると、すぐ左手に門が見える。それをくぐるとすぐ正面に本堂があり、その回りを、しだれ柳が取り囲んでおり粋な感じを漂わせている。

 本堂が宝形造の六角堂であることから、一般に六角堂の名で呼ばれるが、正しくは紫雲山頂法寺とう。用明天皇2年(587)に聖徳太子が創建したと伝えられている。西国33ヵ所第18番札所。建仁元年(1201)、比叡山延暦寺で修行していた親驚が、百日間毎夜当寺に通い、霊夢によって浄土真宗開創の根源を得たとも伝えられる。この時親驚が奉納したという六字名号が寺宝として残されている。寺務所は池坊とよぱれ、創建の際、太子沐浴の泉と伝える池の傍に堂を営み、朝夕仏前に花を供えた。これが今日の華道のはじまりとされ、池坊流の起源でもある。

 本堂の敷石中央には、「へそ石」と呼ばれる中央に穴のあいた石がある。延暦13年(794)の平安京造営の際、六角堂が道のまん中になるため、六角堂は北に16cmほど動いたため、このへそ石が残ったという。古くから、この石が京の都の中心とされていた。また六角堂は、観音寺・蓮華王院(三十三間堂)・六渡羅蜜寺・清水寺・長楽寺・新長谷寺とともに洛陽七観音のひとつに数えられている。

 応仁の乱後、京の町と寺院が復興整備された際、六角堂は庶民信仰の場として再興される。以後は「町堂」の性格を持つ寺院として、町構成の中心的役割を果した。天文法華一揆の結集地ともなったこともでも知られている。
 寛永8年(1641)に、内裏造営に際し余材を受けて本堂・四脚門を建立したといわれ、規模も、多聞院・不動院・住心院・愛染院などの寺家があった。しかし、宝永・大明・元治の大火に焼失。寺家も廃絶したり分離して現存せず、現在の堂宇は明治8年
(1875)に再建されたもの。

 当寺執行の住居は本堂後方にあり、池坊といわれて、華道家元としても著名。12世専慶は草木自然を愛し、文明年間(1469~87)に花の名手として世に知られていた。これより立華が起こり、23世専好は後水尾天皇に招かれ宮中の花会を指導したという。連歌の作者として名高い26世専順は更に華道を発展させたと伝わる。 
 通りをへだてた南側に鐘楼があり、豊臣家の家臣、横尾忠氏が寄進したと伝えられており、動乱時や鴨川の洪水のときに庶民この鐘を鳴らして急知らせるものでもあった。
 六角堂の幾何学的造形を見るためには、西の池坊のショールームに行き、ガラス越しにエレベータから寺の形を見てみると、正に「六角」が確認できる。

 所在地:京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248。
 交通:地下鉄烏丸御池駅出口5番下車3分。阪急烏丸駅から徒歩約6分。

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