「人波におされながらも誓願寺 心にふかく頼みきにけり」(御詠歌)
阪急京都線「河原町」駅から、京都市内の一番の繁華街を通る四条通を、西の方向に100㍍ほど進むとアーケードのある賑やかな新京極と出合う。その通りに入り、北の方向に約500㍍ほど進むと右手に誓願寺の山門が見えてくる、駅から徒歩約10分ほどの距離だ。
誓願寺が上京区元誓願寺通り小川町からこの地へ移ったのは秀吉の時代の天正13年であった。秀吉は都の周囲に7里3丁にわたる土居を築き、町中の寺院を洛外へと移した。その時、多くの寺院が東の果てに移され「寺町」というようになった。誓願寺もその時、秀吉の側室京極竜子松の丸殿の篤信によって諸大名の御簾中にも勧進され最も大きな堂塔が12年間かかって建立された。その結構は、まづ表門は六角通り寺町に面し、裏門は三条通りに北面し、南は誠心院に接し境内6千余坪、塔頭寺院18ヶ寺、七道伽藍、三重塔など京都絵図(安永年間)に出ている。
しかし明治に入り、この辺りに娯楽場繁華街を作ることになり寺町寺院の境内を削り、墓地を整理し塀を取り払い、小川を埋め三条から四条まで開いた、これが現在の新京極である。
誓願寺はこの新京極の繁華街の中にあり、西門は繁華街に面し、東門は比較的人通りの少ない道路に面している。
本尊に阿弥陀如来、聖観世音菩薩を安置した浄土宗西山深草派総本山の「誓願寺」は、およそ1300年の昔、飛鳥時代(660年)天智天皇の勅願により奈良に恵陰が開創したと伝えられ、丈六の本尊は当時の仏工彫刻師である賢問子(けんもんし)、芥子国(けしこく)という父子の合作という。延暦13年(794)恒武天皇の時代、平安遷都とともに伏見深草に移され、七道伽藍の結構をそのまま再現し念仏大道場となった。
昭和7年9月26日夜半火災発生、大本堂焼失、本尊損傷した。昭和30年、元祖法然上人七50年遠忌を期して「本堂再建」にかかり、昭和39年、鉄筋コンクリート造りのモダンな本堂が完成した。
では見所を紹介しておこう。
■「策伝忌」(醒睡笑著者)
誓願寺第55世安楽庵策伝上人(落語の祖・1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。
■謡曲「誓願寺」と扇塚
世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。
■迷子をさがす「月下氷人石」(げっかひょうじんせき)
その昔、貧苦の中で病気になった武士が、妻に、老父に孝養してくれと言い残して死んだ。妻は、子供がいては孝養できないからと、思い余って子供を捨てた。その時、そこに一本の「卒塔婆」を建て、それに子を捨てることになった切ない思い歌に記した。時を経て、立派な僧侶に成長した息子がこの卒塔婆をたずねてきた。そして彼は、歌の隣に「子を捨てる親を、お前はどんなふうに見ていたか。さて今度は親をたずねる方法を教えて欲しい」という歌を書きつけた。
その後まもなく、2人は再会を果たし、以後、安楽に暮らしたという。
「月下氷人石」は江戸時代から、迷子さがしの標として用いられてきた。
■縁結びに霊験「お半・長右衝門墓」
お半・長右衝門は、近松門左衝門の悲恋戯曲「桂川連理柵」で知られる。2人は死後、誓願寺に葬られた。悲恋伝説が若い男女の人気を呼んでおり、修学旅行の女性徒の参拝も多い。
宝物としては、重要文化財の指定を受けている「誓願寺縁起」3副と「木造毘沙門天立像」が一躯、京都府有形文化財が「地蔵十王図」11副。その他、仏画や祖師像、宸翰(天皇自筆の手紙)、綸旨(天皇の詔)を含む古文書を多数保存している。
所在地:京都市中京区新京極三条下ル桜之町453。
交通:JR京都から京都地下鉄烏丸線で「烏丸御池」駅に、ここで地下鉄東西線「醍醐」行きに乗り換え、「京都市役所前」駅で下車、徒歩約5分。
阪急京都線「河原町」駅から、京都市内の一番の繁華街を通る四条通を、西の方向に100㍍ほど進むとアーケードのある賑やかな新京極と出合う。その通りに入り、北の方向に約500㍍ほど進むと右手に誓願寺の山門が見えてくる、駅から徒歩約10分ほどの距離だ。
誓願寺が上京区元誓願寺通り小川町からこの地へ移ったのは秀吉の時代の天正13年であった。秀吉は都の周囲に7里3丁にわたる土居を築き、町中の寺院を洛外へと移した。その時、多くの寺院が東の果てに移され「寺町」というようになった。誓願寺もその時、秀吉の側室京極竜子松の丸殿の篤信によって諸大名の御簾中にも勧進され最も大きな堂塔が12年間かかって建立された。その結構は、まづ表門は六角通り寺町に面し、裏門は三条通りに北面し、南は誠心院に接し境内6千余坪、塔頭寺院18ヶ寺、七道伽藍、三重塔など京都絵図(安永年間)に出ている。
しかし明治に入り、この辺りに娯楽場繁華街を作ることになり寺町寺院の境内を削り、墓地を整理し塀を取り払い、小川を埋め三条から四条まで開いた、これが現在の新京極である。
誓願寺はこの新京極の繁華街の中にあり、西門は繁華街に面し、東門は比較的人通りの少ない道路に面している。
本尊に阿弥陀如来、聖観世音菩薩を安置した浄土宗西山深草派総本山の「誓願寺」は、およそ1300年の昔、飛鳥時代(660年)天智天皇の勅願により奈良に恵陰が開創したと伝えられ、丈六の本尊は当時の仏工彫刻師である賢問子(けんもんし)、芥子国(けしこく)という父子の合作という。延暦13年(794)恒武天皇の時代、平安遷都とともに伏見深草に移され、七道伽藍の結構をそのまま再現し念仏大道場となった。
昭和7年9月26日夜半火災発生、大本堂焼失、本尊損傷した。昭和30年、元祖法然上人七50年遠忌を期して「本堂再建」にかかり、昭和39年、鉄筋コンクリート造りのモダンな本堂が完成した。
では見所を紹介しておこう。
■「策伝忌」(醒睡笑著者)
誓願寺第55世安楽庵策伝上人(落語の祖・1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。
■謡曲「誓願寺」と扇塚
世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。
■迷子をさがす「月下氷人石」(げっかひょうじんせき)
その昔、貧苦の中で病気になった武士が、妻に、老父に孝養してくれと言い残して死んだ。妻は、子供がいては孝養できないからと、思い余って子供を捨てた。その時、そこに一本の「卒塔婆」を建て、それに子を捨てることになった切ない思い歌に記した。時を経て、立派な僧侶に成長した息子がこの卒塔婆をたずねてきた。そして彼は、歌の隣に「子を捨てる親を、お前はどんなふうに見ていたか。さて今度は親をたずねる方法を教えて欲しい」という歌を書きつけた。
その後まもなく、2人は再会を果たし、以後、安楽に暮らしたという。
「月下氷人石」は江戸時代から、迷子さがしの標として用いられてきた。
■縁結びに霊験「お半・長右衝門墓」
お半・長右衝門は、近松門左衝門の悲恋戯曲「桂川連理柵」で知られる。2人は死後、誓願寺に葬られた。悲恋伝説が若い男女の人気を呼んでおり、修学旅行の女性徒の参拝も多い。
宝物としては、重要文化財の指定を受けている「誓願寺縁起」3副と「木造毘沙門天立像」が一躯、京都府有形文化財が「地蔵十王図」11副。その他、仏画や祖師像、宸翰(天皇自筆の手紙)、綸旨(天皇の詔)を含む古文書を多数保存している。
所在地:京都市中京区新京極三条下ル桜之町453。
交通:JR京都から京都地下鉄烏丸線で「烏丸御池」駅に、ここで地下鉄東西線「醍醐」行きに乗り換え、「京都市役所前」駅で下車、徒歩約5分。