「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「笠置寺」(かさぎでら)

2009年06月30日 09時39分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
 笠置寺は、京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする真言宗智山派の仏教寺院で、山号は鹿鷺山(かさぎさん)と称する。

 創建については諸説あり定かでないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』(巻11)には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、こう記されている。
『天智天皇の子である大友皇子はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
 鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。大友皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった』(地名の由来)、その後、『皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだ』(弥勒磨崖仏の由来)。とあり、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを物語っている。

 また、歴史的に奈良の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、さらに東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁(ろうべん、789-773)や、その弟子で「お水取り」の創始者といわれる実忠にかかわる伝承も残っている。良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。一方、良弁の弟子・実忠にかかわるものとして、笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天へつながっていると言われていた。実忠はある日、龍穴で修行中、穴の奥へと歩いていくと兜率天に至った。兜率天の内院49院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺(二月堂)のお水取りであるという。

 平安時代後期には末法思想(釈迦の没後二千年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かったという。寛弘4年(1007)、藤原長の参詣(御堂関白記)などが記録に残っている。

 「笠置寺」を世に知らしめた出来事が「元弘の乱」である。
 元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り挙兵した。笠置山は同年9月に陥落、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。その後、天皇は秘かに「隠岐島」を脱出し、建武元年(1334)「建武の中興」を成し遂げたが、二年後足利尊氏と仲違いし、吉野へ逃れた。笠置の近くには柳生一族の里があり、後醍醐天皇に「南に頼るべき大樹がある」と楠木正成を紹介したのは、後の徳川幕府指南役、柳生宗矩の先祖たったと伝えられている。
 後醍醐天皇側についた楠木正成は、千の兵で足利尊氏軍数万を千早城にこもって持ちこたえた、その戦ぶりは後世に語り継がれている。

 「元弘の乱」で山内49ケ寺の全てが焼失、わずか虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみがの姿をとどめた。像容は「覚禅鈔」(図像集)所収の図像や、「笠置曼荼羅図」に、弥勒磨崖仏と木造13重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
 暦応2年(1339)に再興されるが、文和4年(1355)再び焼失。永徳元年(1381)には本堂が再興されるが、応永5年(1398)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなく、現在の寺は
明治9年(1876)に再興された。

 「二の丸跡」から西へ進んで、左(南)へ回り込むと、大きな「貝吹き岩」がある。昔は、修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたと云い、また、「元弘の乱」の折りには、後醍醐天皇方の武士が、岩上より法螺貝を吹いて士気をたかめるためたともいわれている。この辺りから眼下に木津川に架かった朱色のトラス橋「笠置大橋」なども見え絶景である。
 「貝吹き岩」の南真下が「もみじ公園」で、10月には「秋まつり」が行われ、「元弘太鼓(げんこうたいこ)」が鬼の面を被った僧兵によって打ち鳴らされる。
 「もみじ公園」を右下に見て左へ曲がり、笠置山の山頂へ石段を上がると、史蹟「後醍醐天皇行在所跡」がある。

 「さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし」(後醍醐天皇)

 所在地:京都府相楽郡笠置町笠置山。
 交通:奈良駅からJR関西本線・笠置駅下車、徒歩約40分。

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 「観音寺」(かんのんじ)

2009年06月23日 17時46分13秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京田辺市南部、同志社大学京田辺キャンパスが所在する丘陵の南側には普賢寺川が流れ、それに沿って東西にのびる小さな平野は普賢寺谷と呼ばれている。川の北側の京田辺市普賢寺下大門には大御堂観音寺があるが、そこには天平16年(744)に木芯乾漆「十一面観音菩薩立像」(国宝)が安置され、華やかな天平の息吹を今に伝えている。菩薩像は柔らかみのある女性的な顔立ちをしており、衣紋の線もしなやかに揺れているように見え、全体的に流美な印象である。
 また、輪光と呼ばれる輪が、肩にかけられているように広がる光背を負っていることも目を引きつける。

 木芯乾漆とは、木彫りで原型を造り、それに木屎漆などを厚く塗り盛り上げて形作る技法をいい、ここの菩薩像はその木心乾漆造りの代表例とも言える。
 観音寺は、今から約1300年前、天武天皇の勅願により義淵(ぎえん)僧正が開基し、天平年間(729~48)聖武天皇の命により良弁僧正が伽藍を増築、再興したと伝えられており、その後奈良の東大寺のお水取りを初めた実忠和尚が第一世として入寺したという。たびたび火災に遭ったが、奈良・興福寺の別院でもあったため藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えた。

 説明によると、往時には諸堂13、僧坊20余りを数える大寺であったようだが、現在は本堂(大御堂)と繁栄を偲ばせる数個の礎石が残っているのみである。
 当寺で行われる「竹送り」が有名である。

 竹送りとは、二月堂の「お水取り」の用いる真竹を当寺から二月堂まで送り届ける行事で、当寺の南西500メートル周辺の竹藪から根付きの竹を7本掘り起こし、お水取りに使われる松明(たいまつ)として運ぶというもので、今年(09年)で31回目となる。お水取りには211本の松明を使用されるが、そのうちの7本をイベント的に届けている。他の竹は京都や奈良から密かに運ばれるそうだ。

 当寺から運ぶようになったのは、昭和52年に60年に一度と言う花枯病により真竹がなくなり、二月堂は四国や九州まで竹を集めたとのこと。それを聞いた人が、山城の村の藪に、まわりが20cm以上の真竹がある事が分かり、持ち主に聞いてみたところ、由緒ある行事に使われるのならということで、寄進する事になったとのこと。

 当寺は古代・中世には「普賢寺」と呼ばれており、のどかな里山の景観に溶け込んで佇んでいる。春は菜の花畑が前面に広がり、参道を囲む桜並木と溶け込んで、極楽浄土の世界を醸し出す。参拝者もこの時期は特別に多いが、カメラ愛好家たちも大勢訪れる。また、秋には紅葉も見られ、四季折々の美を堪能できる。

 所在地:京都府京田辺市普賢寺
 交通:近鉄三山木駅から奈良交通バス水取方面行き、普賢寺下車、徒歩5分。車だと、京奈和道田辺西ICから生駒方面へ向かい10分。

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「聚楽第跡」(じゅらくだいあと)

2009年06月16日 10時43分58秒 | 古都逍遥「京都篇」
 そこは何もなかった。ぽつんと冷たい石碑が物悲しく立っているだけだった。
 天下をとった豊臣秀吉がその力を鼓舞するかのように、諸大名に命じ10万余の人夫を動員させ、着工から1年余りで金箔瓦に覆われた豪華絢爛の「聚楽第」を完成させたのは、天正14年(1586)であった。

 平安京の大内裏旧跡の内野に構築した邸宅で、北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とする規模だと推定されている。周囲を深さ5.4m、幅36m、全長1800mに及ぶ濠で囲んだという。
 内郭には本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれていたそうで、これだけでも立派な城といえるだろう。そして周辺には武家屋敷、公家屋敷、町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈し、千利休も葭屋町(晴明神社に隣接)に「聚楽屋敷」を与えられている。

 九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を行った。天正16年(1588)に、後陽成天皇の行幸を迎え饗応した。また、天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われ、天下に自らの力を誇示した舞台となったところである。
 また、天正19年(1591)、秀吉は洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じた。
 お土居は、東は鴨川、北は鷹峰、西は紙屋川、南は九条に至る延長22.5km、高さ約4~5mという大規模な土塁であったという。
 
 この造成とともに、各寺院を強制移転させる寺院街の建設も行われ、市街地東側に「寺町」を、北部に「寺之内」を造成させた。これにより京の都は、聚楽第と御所を中心とした城下町的形態に変容していった。
 この年(天正19年)12月、秀吉は甥である豊臣秀次に関白職を譲り、秀次は聚楽第に移り住んだ。

 文禄3年(1594)は秀吉は隠居後の居所として伏見城の築城を始めるが、翌年、謀反の疑いで関係が悪化していた秀次を高野山に追放したのち切腹を命じるに及んで、聚楽第は取り壊された。
 聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたが、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという建造物も少なくない。その後、新たに京都新城とよばれる京屋敷が造営(現在の京都御苑内の仙洞御所)された。京都新城には関ヶ原の戦いまでは、豊臣秀吉の正室である北政所が住んでいたが、戦い後、徳川家康により破壊された。

 「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とあり、歴史家の間ではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっているようだ。

 現在、聚楽第はわずかに痕跡をとどめる程度で、確かな遺構は残っておらず、「梅雨の井」跡と伝える史跡が松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内にあるが「聚楽第遺構]との確証はない。また、智恵光院通出水通下ルの京都市出水老人デイサービスセンター付近に[加藤清正寄贈」という庭石も残るがこれも定かではないという。浄福寺通中立売の正親小学校北側に[聚楽第跡]の石碑が建っている。なお近年行なわれた調査では堀の跡などが発掘され、金箔瓦なども出土している。
 まさに、「夢のまた夢」のあとと言うにふさわしい聚楽第である。

 所在地:京都市上京区中立売通裏門西入南側
 交通:市バス千本出水下車徒歩5分、京都駅より市バス50番で、智恵光院中立売バス停下車すぐ。

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大徳寺「黄梅院」(おうばいいん)

2009年06月10日 16時49分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一で、千利休作庭の池泉式枯山水庭園をもつ塔頭寺院「黄梅院」は、織田信長が入洛した永禄5年(1562)、父・信秀の追善菩提のために春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)和尚(大徳寺第92世住持)を開祖として永禄四年に建てた黄梅庵「黄梅庵」が始まり。

 その後、小早川隆景が開基となり毛利輝元はじめ歴代が檀越として天正14年(1586)本堂を造営、隆景の死後、隆景の法名をとり黄梅院に改称された。
 本堂・庫裡・唐門は国の重要文化財に指定されており、中でも天正17年(1589)に隆景が建立した庫裡は、日本の禅宗寺院における現存最古のもの。

 客殿の襖絵(重要文化財)は、雪舟の画風を継承した毛利家・御用絵師である雲谷等顔(うんこくとうがん)筆で、室中の「竹林七賢図」や檀那の間の「西湖図」など44面が残る。

 書院の「自休軒」(じきゅうけん)は大徳寺を開いた大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名としたもので、木造平屋建ての簡素な造りで、外観は大きさが桁行・奥行ともに11.1mで、屋根は入母家造りの桟瓦葺き。内部は南北2列に4部屋ずつ並ぶ八間取りの平面となり周囲を外縁がとり囲っている。

 大書院南側の千利休作の枯山水様式の庭園「直中庭」(じきちゅうてい)は、中央に石橋が架かっている瓢箪型の枯池で、対岸左手側に配置されている大石が庭全体を引き締めている。また、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったとされる朝鮮灯籠が左側に見える。なお、加藤清正は、朝鮮伝来の梵鐘も寄進(天正19年)している。
 北側中央に位置する四畳半下座床の茶室「昨夢軒」(さくむけん)は、利休の師・武野紹鴎(たけのじょうおう)作で、西と南は襖四枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成となり各方向に行き来が出来るように作られている。この中で北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となっている。出入り口を北側におくのは紹鴎の手法だという。本堂南側の枯山水庭園「破頭庭」(はとうてい)は、手前半分に白砂が敷かれ、奥半分は一面を苔で覆われた中に2つの石が配置されたシンプルな作庭。

 静けさに包まれた苔と木々が生み出す清々しさに心が洗われる。
 公開期間(通常非公開)が終わっても苔庭は門から覗くことができるから、大徳寺を訪れた時にはぜひ見ていただきたい。 

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町
 交通:JR京都駅より市バス205号系統で大徳寺前下車。

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「矢田寺」(やたでら)

2009年06月04日 09時21分21秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都市役所の御池通りの南側から本能寺のある寺通へと下がり、修学旅行でにぎわう新京極通りへ、賑やかな商店街アーケードの中に橙色の提灯につつまれた矢田地蔵尊(矢田寺)がある。金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺である。

 寺伝によれば、小野篁(おののたかむら)が、あるとき、閻魔大王の要請を受けて、大和国郡山(こおりやま)の矢田寺の住職で有徳の誉れも高い満慶(まんけい)上人(またの名を満米)を地獄に招待、八寒八暑の地獄を案内した。そのとき火焔の中で亡者(もうじゃ)を助けようと一心に働いている僧を見つけた。いぶかしむ満慶上人に向かってその僧は、「私は地蔵菩薩である。娑婆(しゃば)に戻ったら私の姿を造れ。生きている人を済度してやろう」と告げたという。
 
 地獄から帰った満慶上人は小野篁の協力を得て、承輪12年(845)に郡山の矢田寺に模した別院を五条坊門のあたりに建立し、地獄で出会った地蔵菩薩を写したお地蔵さんを本尊にした。高さ約2メートルの立像で、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。その後、応仁の乱などで伽藍は焼失して転々としたが、戦国時代の天正7年(1579)に現在地に復興された。

 また、当寺の梵鐘は、建仁寺の塔頭寺院六道珍皇寺(東山)の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、1年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。
 境内には願い事が書かれた、ぬいぐるみ地蔵が沢山奉納されている。これは手づくりのかわいらしいお地蔵さんで持っていても良いという。この他、重要文化財とされている救い絵馬(1000円)もある。

 所在地:京都市中京区寺町通三条上ル523。
 交通:京阪本線三条駅6番出口より三条通り西へ、寺町通り北へ徒歩5分。

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