笠置寺は、京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置町にあり、東西に流れる木津川の南岸、標高289メートルの笠置山を境内とする真言宗智山派の仏教寺院で、山号は鹿鷺山(かさぎさん)と称する。
創建については諸説あり定かでないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』(巻11)には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、こう記されている。
『天智天皇の子である大友皇子はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。大友皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった』(地名の由来)、その後、『皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだ』(弥勒磨崖仏の由来)。とあり、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを物語っている。
また、歴史的に奈良の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、さらに東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁(ろうべん、789-773)や、その弟子で「お水取り」の創始者といわれる実忠にかかわる伝承も残っている。良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。一方、良弁の弟子・実忠にかかわるものとして、笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天へつながっていると言われていた。実忠はある日、龍穴で修行中、穴の奥へと歩いていくと兜率天に至った。兜率天の内院49院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺(二月堂)のお水取りであるという。
平安時代後期には末法思想(釈迦の没後二千年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かったという。寛弘4年(1007)、藤原長の参詣(御堂関白記)などが記録に残っている。
「笠置寺」を世に知らしめた出来事が「元弘の乱」である。
元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り挙兵した。笠置山は同年9月に陥落、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。その後、天皇は秘かに「隠岐島」を脱出し、建武元年(1334)「建武の中興」を成し遂げたが、二年後足利尊氏と仲違いし、吉野へ逃れた。笠置の近くには柳生一族の里があり、後醍醐天皇に「南に頼るべき大樹がある」と楠木正成を紹介したのは、後の徳川幕府指南役、柳生宗矩の先祖たったと伝えられている。
後醍醐天皇側についた楠木正成は、千の兵で足利尊氏軍数万を千早城にこもって持ちこたえた、その戦ぶりは後世に語り継がれている。
「元弘の乱」で山内49ケ寺の全てが焼失、わずか虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみがの姿をとどめた。像容は「覚禅鈔」(図像集)所収の図像や、「笠置曼荼羅図」に、弥勒磨崖仏と木造13重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
暦応2年(1339)に再興されるが、文和4年(1355)再び焼失。永徳元年(1381)には本堂が再興されるが、応永5年(1398)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなく、現在の寺は
明治9年(1876)に再興された。
「二の丸跡」から西へ進んで、左(南)へ回り込むと、大きな「貝吹き岩」がある。昔は、修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたと云い、また、「元弘の乱」の折りには、後醍醐天皇方の武士が、岩上より法螺貝を吹いて士気をたかめるためたともいわれている。この辺りから眼下に木津川に架かった朱色のトラス橋「笠置大橋」なども見え絶景である。
「貝吹き岩」の南真下が「もみじ公園」で、10月には「秋まつり」が行われ、「元弘太鼓(げんこうたいこ)」が鬼の面を被った僧兵によって打ち鳴らされる。
「もみじ公園」を右下に見て左へ曲がり、笠置山の山頂へ石段を上がると、史蹟「後醍醐天皇行在所跡」がある。
「さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし」(後醍醐天皇)
所在地:京都府相楽郡笠置町笠置山。
交通:奈良駅からJR関西本線・笠置駅下車、徒歩約40分。
創建については諸説あり定かでないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682)、大海人皇子(天武天皇)の創建とある。一方、『今昔物語集』(巻11)には笠置の地名の起源と笠置寺の弥勒磨崖仏の由来について、こう記されている。
『天智天皇の子である大友皇子はある日、馬に乗って鹿狩りをしていた時、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生してしまった。
鹿は断崖を越えて逃げ去り、自らの乗る馬は断崖の淵で動きがとれない。そこで山の神に祈り、「もし自分を助けてくれれば、この岩に弥勒仏の像を刻みましょう」と誓願したところ、無事に助かった。大友皇子は次に来る時の目印として、自分の笠をその場に置いていった』(地名の由来)、その後、『皇子が再び笠置山を訪れ、誓願どおり崖に弥勒の像を刻もうとしたところ、あまりの絶壁で思うにまかせない。しかし、そこへ天人が現れ、弥勒像を刻んだ』(弥勒磨崖仏の由来)。とあり、笠置寺の始まりが弥勒磨崖仏造立であったことを物語っている。
また、歴史的に奈良の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、さらに東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁(ろうべん、789-773)や、その弟子で「お水取り」の創始者といわれる実忠にかかわる伝承も残っている。良弁は笠置山の千手窟に籠って修法を行い、その功徳によって木津川の舟運のさまたげとなっていた河床の岩を掘削することができたという。一方、良弁の弟子・実忠にかかわるものとして、笠置山には龍穴という奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天へつながっていると言われていた。実忠はある日、龍穴で修行中、穴の奥へと歩いていくと兜率天に至った。兜率天の内院49院をめぐった実忠が、そこで行われていた行法を人間界に伝えたのが東大寺(二月堂)のお水取りであるという。
平安時代後期には末法思想(釈迦の没後二千年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かったという。寛弘4年(1007)、藤原長の参詣(御堂関白記)などが記録に残っている。
「笠置寺」を世に知らしめた出来事が「元弘の乱」である。
元弘元年(1331)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り挙兵した。笠置山は同年9月に陥落、後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。その後、天皇は秘かに「隠岐島」を脱出し、建武元年(1334)「建武の中興」を成し遂げたが、二年後足利尊氏と仲違いし、吉野へ逃れた。笠置の近くには柳生一族の里があり、後醍醐天皇に「南に頼るべき大樹がある」と楠木正成を紹介したのは、後の徳川幕府指南役、柳生宗矩の先祖たったと伝えられている。
後醍醐天皇側についた楠木正成は、千の兵で足利尊氏軍数万を千早城にこもって持ちこたえた、その戦ぶりは後世に語り継がれている。
「元弘の乱」で山内49ケ寺の全てが焼失、わずか虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみがの姿をとどめた。像容は「覚禅鈔」(図像集)所収の図像や、「笠置曼荼羅図」に、弥勒磨崖仏と木造13重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。
暦応2年(1339)に再興されるが、文和4年(1355)再び焼失。永徳元年(1381)には本堂が再興されるが、応永5年(1398)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなく、現在の寺は
明治9年(1876)に再興された。
「二の丸跡」から西へ進んで、左(南)へ回り込むと、大きな「貝吹き岩」がある。昔は、修験者がこの岩の上で法螺貝を吹いたと云い、また、「元弘の乱」の折りには、後醍醐天皇方の武士が、岩上より法螺貝を吹いて士気をたかめるためたともいわれている。この辺りから眼下に木津川に架かった朱色のトラス橋「笠置大橋」なども見え絶景である。
「貝吹き岩」の南真下が「もみじ公園」で、10月には「秋まつり」が行われ、「元弘太鼓(げんこうたいこ)」が鬼の面を被った僧兵によって打ち鳴らされる。
「もみじ公園」を右下に見て左へ曲がり、笠置山の山頂へ石段を上がると、史蹟「後醍醐天皇行在所跡」がある。
「さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし」(後醍醐天皇)
所在地:京都府相楽郡笠置町笠置山。
交通:奈良駅からJR関西本線・笠置駅下車、徒歩約40分。