人気作家・田口ランディさんの短編小説「縁切り神社」にも登場した安井金毘羅宮、讃岐の金毘羅宮が洛中にもあるということから訪ねてみた。
なんでも「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というご利益のある神社ということから近隣の信仰は言うに及ばず全国から訪れるという。
第38代天智天皇(てんちてんのう:668~671)の代、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まると伝えられている。
崇徳天皇(すとくてんのう:1123~41)は特にこの藤を好んだと言われ、久安2年(1146)に堂塔を修造して、寵妃(ちょうあい)する烏丸殿(からすまどの)を住まわしたが、保元の乱(1156)にこの戦いに敗れて讃岐(香川県)に流された。この地で上皇は大乗経を書写し、都に納めてほしいと送ったが、信西入道(1106~59)が呪詛のためではないかと疑い、経を送り返した。このことに憤った上皇は、「大魔王となって天下を朕がはからひになさん」と言って指の血で願文を書き、経の箱に「奉納竜宮城」と記して海底に沈めた。すると海上に火が燃え、童が出てきて舞踏し、これを見た上皇は「所願成就す」といい、それより爪髪を切らず六年の後、崩御した。
それ以後、都には火災や疫病がおこり、崇徳帝の呪いだとささやかれ始める。そんな中で彼の霊がこの神社に降り、夜な夜な光を放つようになる。大円法師という真言の名僧が参籠し、崇徳帝の御霊を見る。大円法師は後白河天皇にこのことを奉じ、詔により建治年間(1275~77)に建立された光明院観勝寺堂塔を建立、御霊を鎮めたと伝えられ、当寺が金刀比羅宮の起こりといわれている。
しかし、光明院観勝寺は応仁の乱(1467~77)により荒廃、元禄8年(1695)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建された時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになったという。
明治維新の後、院を廃して安井神社と改称したが、第二次大戦後安井金比羅宮となり現在に至っている。
ご利益があるとされる「悪い縁を切り、良縁を結ぶ」の謂われについて尋ねてみると、主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)をしたことから、当宮は“断ち物”の祈願所として信仰され、また、保元の乱によって烏丸殿と別れざるを得なかった、崇徳帝の悲しみの気持ちをくみ、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ち切ってくれると信じられてきた。
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切ってくれて、良縁、快方、善行が授かるという。
また、海上安全にもご利益があるとされ、釣り人やマリンスポーツを楽しむ人たちの信仰も集めているという。
見所としては、高さ1.5㍍、幅3㍍の巨石の「縁切り縁結び碑(いし)」で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれているという。
「○○君と幸せに結婚できますように」という願い事や、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」、「禁煙・禁酒」「サラ金から逃れられますように」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあっり、碑が見えないくらい覆い尽くされている。
まず、形代(百円)に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結び、最後に形代を碑に貼って祈願します。
私も願い事を記し、メタボの身体を小さな穴に這い這いして往復、身体の重みで膝頭がチョッピリ痛かったが、ご利益、ご利益と祈願した。
当宮は、藤・山吹の名勝の地としても知られ、第62代村上天皇の御製に
「まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの
たゝまくをしきけふ にもあるかな」
と詠まれており、往昔、新更科とも称えられた観月の名勝でもあり、中秋、洛陽の文人墨客が此処に集い、東山の月を賞したという。現在月見町などとあるのは、その名の残りであるようだ。
9月27日に「櫛まつり」が開催され、花街(かがい)花見小路を華やかな時代行列が繰り広げられる。
この祭りは、女性のいのちともいうべき髪に彩りと華やぎを与えてくれる櫛に感謝するというもので、使い古した櫛や折れた櫛に感謝し、古代から現代までの髪型と衣装を装った女性が祇園界隈を練り歩く。女性の髪を美しく飾る櫛。
東大路通に面した鳥居から参道、境内に至まで人で埋め尽くされ、写真愛好家たちの撮影場所の取り合いでひしめき、各局の報道陣までまきこまれる賑わいとなる。
所在地:京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70。
交通:JR「京都駅」から市バス206系統「東山安井」下車、徒歩1分。東大路安井交差点、高台寺参道の鳥居の向かい側。
なんでも「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というご利益のある神社ということから近隣の信仰は言うに及ばず全国から訪れるという。
第38代天智天皇(てんちてんのう:668~671)の代、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まると伝えられている。
崇徳天皇(すとくてんのう:1123~41)は特にこの藤を好んだと言われ、久安2年(1146)に堂塔を修造して、寵妃(ちょうあい)する烏丸殿(からすまどの)を住まわしたが、保元の乱(1156)にこの戦いに敗れて讃岐(香川県)に流された。この地で上皇は大乗経を書写し、都に納めてほしいと送ったが、信西入道(1106~59)が呪詛のためではないかと疑い、経を送り返した。このことに憤った上皇は、「大魔王となって天下を朕がはからひになさん」と言って指の血で願文を書き、経の箱に「奉納竜宮城」と記して海底に沈めた。すると海上に火が燃え、童が出てきて舞踏し、これを見た上皇は「所願成就す」といい、それより爪髪を切らず六年の後、崩御した。
それ以後、都には火災や疫病がおこり、崇徳帝の呪いだとささやかれ始める。そんな中で彼の霊がこの神社に降り、夜な夜な光を放つようになる。大円法師という真言の名僧が参籠し、崇徳帝の御霊を見る。大円法師は後白河天皇にこのことを奉じ、詔により建治年間(1275~77)に建立された光明院観勝寺堂塔を建立、御霊を鎮めたと伝えられ、当寺が金刀比羅宮の起こりといわれている。
しかし、光明院観勝寺は応仁の乱(1467~77)により荒廃、元禄8年(1695)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建された時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになったという。
明治維新の後、院を廃して安井神社と改称したが、第二次大戦後安井金比羅宮となり現在に至っている。
ご利益があるとされる「悪い縁を切り、良縁を結ぶ」の謂われについて尋ねてみると、主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)をしたことから、当宮は“断ち物”の祈願所として信仰され、また、保元の乱によって烏丸殿と別れざるを得なかった、崇徳帝の悲しみの気持ちをくみ、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ち切ってくれると信じられてきた。
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切ってくれて、良縁、快方、善行が授かるという。
また、海上安全にもご利益があるとされ、釣り人やマリンスポーツを楽しむ人たちの信仰も集めているという。
見所としては、高さ1.5㍍、幅3㍍の巨石の「縁切り縁結び碑(いし)」で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれているという。
「○○君と幸せに結婚できますように」という願い事や、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」、「禁煙・禁酒」「サラ金から逃れられますように」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあっり、碑が見えないくらい覆い尽くされている。
まず、形代(百円)に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結び、最後に形代を碑に貼って祈願します。
私も願い事を記し、メタボの身体を小さな穴に這い這いして往復、身体の重みで膝頭がチョッピリ痛かったが、ご利益、ご利益と祈願した。
当宮は、藤・山吹の名勝の地としても知られ、第62代村上天皇の御製に
「まとゐしてみれとも あかぬ藤なみの
たゝまくをしきけふ にもあるかな」
と詠まれており、往昔、新更科とも称えられた観月の名勝でもあり、中秋、洛陽の文人墨客が此処に集い、東山の月を賞したという。現在月見町などとあるのは、その名の残りであるようだ。
9月27日に「櫛まつり」が開催され、花街(かがい)花見小路を華やかな時代行列が繰り広げられる。
この祭りは、女性のいのちともいうべき髪に彩りと華やぎを与えてくれる櫛に感謝するというもので、使い古した櫛や折れた櫛に感謝し、古代から現代までの髪型と衣装を装った女性が祇園界隈を練り歩く。女性の髪を美しく飾る櫛。
東大路通に面した鳥居から参道、境内に至まで人で埋め尽くされ、写真愛好家たちの撮影場所の取り合いでひしめき、各局の報道陣までまきこまれる賑わいとなる。
所在地:京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70。
交通:JR「京都駅」から市バス206系統「東山安井」下車、徒歩1分。東大路安井交差点、高台寺参道の鳥居の向かい側。