聖徳太子(厩戸皇子)の叔父にあたる蘇我馬子(聖徳太子)の建てた飛烏寺は、蘇我氏の氏寺として六世紀末から七世紀初頭にかけて造営されたもので「法興寺」と称した。明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び、日本最古の本格的仏教寺院である。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。
この寺にはいくつもの呼び名があり、馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)といい、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)と称するが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにもあり、また「飛鳥寺式伽藍配置」など学術的なものにも使われていることから、一般的には「飛鳥寺」で通っているようだ。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称するが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられそうだ。なお「鳥形山」は寺の北東、「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)のある山を指すという。
発掘調査の結果によると、ほぼ東西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の馬具などを作る工職人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。
本尊「飛鳥大仏」(約4m85cm)は、推古天皇17年(609)に、中国渡来した仏師鞍作止利(くらつくりのとり)によって銅15t、黄金30kgを用いて造られた。年代のわかる現存の仏像では日本最古のものといわれている。後世の補修が著しいが、面長な顔や、目の形などに法隆寺釈迦三尊に共通した止利式(とりしき)の仏像の特色が現われている。花崗岩(かこうがん)の台座も当初のもので現在左右に脇侍を立てた柄穴(ほぞあな)が残っている。
東大寺の大仏よりも150年も前に作られたもので、顔を比べると東大寺大仏よりも厳しい感じがする。また、飛鳥大仏の特長なのだろうか、手の指と指の間には水鳥の足のようにひだがついていて繋がっているのも珍しく、そのわけを聞くと、“何人たりとももらさず救い上げるという慈悲のあらわれ”だそうだ。この飛鳥大仏は二度の金堂焼失などにより雨ざらしにされていた時期がありかなり破損が激しかった。調査をはじめた当初は頭と指しかなく、以後発掘により様々な部分を見つけ修理をした結果、ようやく現在の形に整った。かなりつぎはぎが見えるのはそのためだそうだ。
またここは大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられている。蘇我入鹿を天皇の前で暗殺して大化の改新となる。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の1とされて、朝廷の保護を受けるようになった。
都が平城京へ移るとともに「法興寺」も現在の奈良市に移転し、「元興寺」となったが、飛鳥の法興寺も存続し「本元興寺」と称された。旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降荒廃したが、江戸時代の寛永9年(1632)、また文政8年(1825)に大坂の篤志家の援助で再建されたとある。
現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかる。
当寺のすぐとなり合わせの田畑のあぜに、忘れられたかのように蘇我入鹿の首塚と伝える五輪塔がポツンとたっており、もの悲しむかのように枯葉がひらひらと舞っていた。
入鹿の首は斬首された後にフラフラと飛んできて、ここでついに力尽きたのだとか。ここより正面に見える丘が、大化の改新の舞台ともなった「甘樫丘」ある。
所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥682。
交通:近鉄橿原神宮駅下車、岡寺前行バスで飛鳥大仏下車。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い、無事に勝利したので飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。
この寺にはいくつもの呼び名があり、馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)といい、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)と称するが、「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにもあり、また「飛鳥寺式伽藍配置」など学術的なものにも使われていることから、一般的には「飛鳥寺」で通っているようだ。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称するが、古代の寺院には山号はなく、後になって付けられそうだ。なお「鳥形山」は寺の北東、「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)のある山を指すという。
発掘調査の結果によると、ほぼ東西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺院であった。造営には百済の馬具などを作る工職人が当り、伽藍配置や瓦の文様などにも、当時の朝鮮の仏教文化の影響が著しい。
本尊「飛鳥大仏」(約4m85cm)は、推古天皇17年(609)に、中国渡来した仏師鞍作止利(くらつくりのとり)によって銅15t、黄金30kgを用いて造られた。年代のわかる現存の仏像では日本最古のものといわれている。後世の補修が著しいが、面長な顔や、目の形などに法隆寺釈迦三尊に共通した止利式(とりしき)の仏像の特色が現われている。花崗岩(かこうがん)の台座も当初のもので現在左右に脇侍を立てた柄穴(ほぞあな)が残っている。
東大寺の大仏よりも150年も前に作られたもので、顔を比べると東大寺大仏よりも厳しい感じがする。また、飛鳥大仏の特長なのだろうか、手の指と指の間には水鳥の足のようにひだがついていて繋がっているのも珍しく、そのわけを聞くと、“何人たりとももらさず救い上げるという慈悲のあらわれ”だそうだ。この飛鳥大仏は二度の金堂焼失などにより雨ざらしにされていた時期がありかなり破損が激しかった。調査をはじめた当初は頭と指しかなく、以後発掘により様々な部分を見つけ修理をした結果、ようやく現在の形に整った。かなりつぎはぎが見えるのはそのためだそうだ。
またここは大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられている。蘇我入鹿を天皇の前で暗殺して大化の改新となる。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も内外の信仰を集め、天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の1とされて、朝廷の保護を受けるようになった。
都が平城京へ移るとともに「法興寺」も現在の奈良市に移転し、「元興寺」となったが、飛鳥の法興寺も存続し「本元興寺」と称された。旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって焼失し、室町以降荒廃したが、江戸時代の寛永9年(1632)、また文政8年(1825)に大坂の篤志家の援助で再建されたとある。
現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかる。
当寺のすぐとなり合わせの田畑のあぜに、忘れられたかのように蘇我入鹿の首塚と伝える五輪塔がポツンとたっており、もの悲しむかのように枯葉がひらひらと舞っていた。
入鹿の首は斬首された後にフラフラと飛んできて、ここでついに力尽きたのだとか。ここより正面に見える丘が、大化の改新の舞台ともなった「甘樫丘」ある。
所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥682。
交通:近鉄橿原神宮駅下車、岡寺前行バスで飛鳥大仏下車。