竹が空に突き出る様に伸び、葉音のざわめきを聞きながら、藪椿が茂る山道を進むと墓道に出る。さらに上っていくと如来石仏などがあり、寿永2年(1183)7月、木曽義仲軍が京へ乱入した日に「法然上人」が一時避難したと伝わる光照南殿旧跡「光照寺」にたどり着く。
「光照寺」は、音羽伊勢宿町にあり、「蓮如」の隠居所として山科本願寺の東方に営まれた。堀や土塁で囲まれていたが、山科本願寺と同時に焼失、後に光照寺として復興した。
山科本願寺は浄土真宗の本山で、山科川、野色川、および安祥寺川を堀と見立てた地形に建てられており、現在でも山科区西野山階町の奥田邸、および山科中央公園に土塁の一部が残されている。特に山科中央公園の土塁は高さ6~8m、長さ50~60mの巨大なものである。
山科中央公園東側には蓮如上人の廟所、西側の住宅地の一画には蓮如上人御往生之地があり、音羽伊勢宿町には蓮如の隠居所とも伝えられている南殿跡など蓮如上人の縁の地がある。
文明7年、吉崎御坊を退去した本願寺代八世蓮如は、文明10年(1478)、海老名氏から寺地の寄進を受けた山科の地に山科本願寺を再建して布教の本拠地とした。この本願寺を御本寺北殿と呼ぶのに対して、東方の音羽に築かれた殿舎を南殿と称した。
南殿は、蓮如が延徳元年(1489)に75歳を迎えた時に隠居所として建てられたもので、現在の光照寺を含む付近一帯に築かれ、築地、堀、土塁などが設けられた城郭的な施設を備え、200m四方程度の規模があったものと推定されており、邸内には園地が築かれ、持仏堂、山水亭、台所などが設けられた。参殿は千石の兵火により焼失したが、天文元年(1536)に光称寺(現光照寺)が、その故地に建立され、現在に至っている。南殿幼稚園の南方に堀、築地、築山、園地、持仏堂、山水亭などの南殿跡の遺構が残っている。
ちなみに、吉崎御坊(吉崎別院=福井県あわら市吉崎1-302)は浄土宗中興の祖・第八世蓮如が、文明3年(1471)7月に道場を開き、布教活動を開始したことに始まる。
吉崎の地は越前と加賀の国境付近にあり、東に大聖寺川が流れ、北の背後には日本海と通じる北潟湖を配した丘陵地形で、城郭築城の選地で言うなれば、後ろ堅固の要害地形であった。
現在の吉崎は北側に国道305号線が走り、当時吉崎御坊のあった御山と称する比高40~50m小高い山にある。
所在地:京都市山科区北花山山田町57。
交通:東海道本線、京阪京津線、地下鉄東西線、京阪バスで山科駅下車。
「光照寺」は、音羽伊勢宿町にあり、「蓮如」の隠居所として山科本願寺の東方に営まれた。堀や土塁で囲まれていたが、山科本願寺と同時に焼失、後に光照寺として復興した。
山科本願寺は浄土真宗の本山で、山科川、野色川、および安祥寺川を堀と見立てた地形に建てられており、現在でも山科区西野山階町の奥田邸、および山科中央公園に土塁の一部が残されている。特に山科中央公園の土塁は高さ6~8m、長さ50~60mの巨大なものである。
山科中央公園東側には蓮如上人の廟所、西側の住宅地の一画には蓮如上人御往生之地があり、音羽伊勢宿町には蓮如の隠居所とも伝えられている南殿跡など蓮如上人の縁の地がある。
文明7年、吉崎御坊を退去した本願寺代八世蓮如は、文明10年(1478)、海老名氏から寺地の寄進を受けた山科の地に山科本願寺を再建して布教の本拠地とした。この本願寺を御本寺北殿と呼ぶのに対して、東方の音羽に築かれた殿舎を南殿と称した。
南殿は、蓮如が延徳元年(1489)に75歳を迎えた時に隠居所として建てられたもので、現在の光照寺を含む付近一帯に築かれ、築地、堀、土塁などが設けられた城郭的な施設を備え、200m四方程度の規模があったものと推定されており、邸内には園地が築かれ、持仏堂、山水亭、台所などが設けられた。参殿は千石の兵火により焼失したが、天文元年(1536)に光称寺(現光照寺)が、その故地に建立され、現在に至っている。南殿幼稚園の南方に堀、築地、築山、園地、持仏堂、山水亭などの南殿跡の遺構が残っている。
ちなみに、吉崎御坊(吉崎別院=福井県あわら市吉崎1-302)は浄土宗中興の祖・第八世蓮如が、文明3年(1471)7月に道場を開き、布教活動を開始したことに始まる。
吉崎の地は越前と加賀の国境付近にあり、東に大聖寺川が流れ、北の背後には日本海と通じる北潟湖を配した丘陵地形で、城郭築城の選地で言うなれば、後ろ堅固の要害地形であった。
現在の吉崎は北側に国道305号線が走り、当時吉崎御坊のあった御山と称する比高40~50m小高い山にある。
所在地:京都市山科区北花山山田町57。
交通:東海道本線、京阪京津線、地下鉄東西線、京阪バスで山科駅下車。