ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願います】雨の中、南部へ少々、平和と慰霊を考える(20240601)

2024年06月03日 | 沖縄島中南部

 今回の沖縄島南部3日間の旅は、いささかいいかげんだ。6月23日の慰霊の日に、平和祈念公園等に行かず、別の場所に行くため、6月に南部に一度は行こうという雑ぱくな発想だったからだ。たまたま新聞で6月1日、日本ペンクラブ「子どもの本」委員会が「子どもの本で平和を考えるin 沖縄」を県立平和祈念資料館・平和祈念ホールで開催することを知ったので、そこに参加しながら、少々行ってみようと考えた。所詮梅雨のなかだし、コースは可能な範囲で回れば良いと。その上、初日を那覇空港とし、3日めに、那覇で県議選を前にした街宣があり、各党の党首級がくるというので、これを見ておこうと、考えた。実に半端だが、梅雨のなかで臨機応変にやるためには、悪くはないかもしれない。言い訳はここまで。

 2024年6月1日(土)朝から小雨。しかしひとまず魂魄(こんぱく)の塔に向かう。

国道331号線を西へ米須入り口へ。

331号の角にある「ひむかいの塔」(宮崎県)木々の中にあり、どんよりしている今日だから、79年前を想起しやすいかもしれない。

南側に琉球石灰岩の熊野鉱山。8:45

暫く来ないうちにどこにであるような「鉱山」の姿になっている。重機が2台動いており、石を砕く音が絶え間なく聞える。

遺骨混じりの鉱山開発にガマフヤーの具志堅隆松さんらが反対してきたのだが、このざまだ。森を壊し、砕石を掘り出し、心を折る。

ずいせんの塔。8:46

沖縄県立首里高等女学校の女生徒が、1945年1月25日、軍医から(軍事)看護学の講習を受け、3月27日卒業式。即刻戦場へと駆り出されたのだ。亡くなられた方々の墓碑銘が、左右にも背後にも刻まれている。

右奥に。

「この道もこの岩肌も、乙女らが弾にたたかれ、踏み惑ひしところ」「夕照」とある。8:50

私は詩人ではないが、「乙女らが、弾にたたかれ 踏み惑ひしところ」と詠む心の深さ。なんとも言えないが、同じような場面を二度とつくりだしてはいけない。79年前の地上にいなかった私だが、だからこそ、この思いを想起したい。

若者を死地に追いやる国家を憎む。憎む心を強制したこの国を許さず、矛盾を生きる。

熊野鉱山と左側奥が魂魄の塔(見えていない)。辺りはサトウキビ畑。8:58

小雨が降ってきた。

魂魄の塔。9:14

今日はまだ誰も慰霊に訪れていないようだ。ひっそりとしている。

1945年、沖縄戦後に住民達が遺骨を収集し(35000余柱の遺骨)、整理するところから、戦後復興が始まった。

沖縄南部の復興は、こうして始まった。その後、石灰石の鉱山もあちこちにできていく。こちらも経済復興に違いない。「金対心」の構図ができていく。1950年から53年の朝鮮戦争を経て、米軍基地の増強が図られていく。(遺骨まじりの)石が死者をむち打ち、石が朝鮮の野山を打ち砕き、朝鮮の人々を打ち倒したのだろう。基地を造るということはそういうことだ。

私達やまとんちゅうは、こうした歴史に余りにも無自覚でありすぎ、やりすごしてきたのだ。

雨が酷くなってきたので、引き返す。途中のバス停で、来たバスに乗る。

10時30分頃、平和祈念公園に到着(バス停は「平和祈念堂入り口」下車)。雨。

しばし休みながら時間待ち。早めの昼食(沖縄そば)を近くでとり、12時頃から沖縄平和祈念資料館見学。300円。2000年の新館に建て直されてから3回目の見学だ。広島の原爆資料館の方がリアルだな。こちらは歴史解説はそこそこできているが、メリハリが不足している。怖いことにどうやって、立ち至るのか? リアルにどうやったら、迫れるのか?! 

「子どもの本で平和を考える」の報告は別途。14時から16時30分頃終了。

雨が上がっている。もう一度近くを探ってみよう。うるま市東山の知人が車で送ると申し出てくれていたのだが、お断りしてしまいました。申し訳ない。ありがとうございます。

16:44 雨は上がっているが、この程度の光だ。資料館前から平和の礎の一端を見る。

平和の礎前の海を眺める場所から。中国大陸側から見た台湾、フィリピン(右側)、朝鮮半島、日本(左側)、琉球諸島はどこにいった? 小さすぎて書けなかったのか? とれてしまったのか? 以前はあったように記憶しているが。 16:48

初めは人が居なかったのだが、入ってきたので、いれてみた。失礼。  

西に向かう。16:54

広い海。ここの標高は80mぐらいあるからな。

ふと思う。79年前にここいらに追い詰められた人たちは、断崖から身を投げたという(今は引き潮)。「海が広い」と思う余裕はなかったにちがいない。今の私達は、まだ色々と感じることが出きる。色々と感じうるのは、平和だからできるのだ。ここを私は大事にしたい。

因みに、こう考えるのは、「子どもの本で平和を考えるin 沖縄」を聞いて思うことだし、私の8月の写真展へのイメージアップでもある。悪天候だから写真の結果はだせなくても、少しでも考え出していかなければならない。

西に向かい、各道府県別の慰霊の碑の合間を行く(註:東京や広島は、魂魄の塔の近くにある。京都は宜野湾市嘉数高台公園)。三重の慰霊碑は、ここにあり、撮影した。2600人余りが亡くなったようだ。合掌。

上がっていく。

一番高いところに牛島満以下の第32軍司令部員の碑。17:19

牛島満第32軍司令官、長勇参謀長の自決を祀る黎明の碑。17:21

 牛島司令官は、自決前に「最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし」と徹底抗戦を唱えて死んだ。司令官不在の軍隊は軍隊でなくなる。ばらけてしまいながら、「徹底抗戦」が残したものはなんだったのか?! 無意味な死をより多く強制したのだろう。

 黎明とは、明け方、新たな時代の明け方の意だが、従来のママ、「皇国」のために死を強制しながら「黎明」はないだろう。こうした当時のトップが一番高い位置を占めながら、「黎明」という愚。プチ「旭日旗」が風で時々震えていた。誰がおいたのか。お茶付き?! 再びの「旭日旗」を笑って済ましてはなるまい。

 因みに海上自衛隊の各級司令官が、「旭日旗」をバックにした自画像を、防衛省・自衛隊のHPに多数上げている。

ここから南西へ。滑りやすい小道を下りていく。

一枚岩が凄い迫力だ。階段が水路になっていた。17:29

「落ちるなよ!」と(心の中で)叫びながら下りる。

無事に健児之塔(沖縄県立師範学校の死者達を祀る)に着いた。17:32

これは慰霊碑の脇にある男子高校生の像。正面の子のうなだれかたが、身にしみる。

また雨が降っている。

18時30分頃宿に戻った。

雨の一日になった。明日は?

 

 

 

 



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