戦後75年の今年が、コロナ禍に見舞われるとは皮肉である。例年通りの沖縄全然没者追悼式のあり方が変更を余儀なくされている。玉城デニー知事は、これを国立墓苑開催と言い、これに異議が出され、再検討を余儀なくされている。例年の規模を大幅に小さくすると、ここだろうと判断したようだ。私も率直に言って、指摘された文を読むまで、ぼんやりしていた。
私が初めて沖縄に来たのは、1989年5月だった。要は天皇の代替わりの時期だった。戦犯天皇ヒロヒトがアキヒトに替わったとしても、その戦争責任も引き継がれていくのだと、私は認識していたし、今でもそう考えている。
私は、この時初めて沖縄平和祈念公園なる地に行った。都道府県の慰霊碑は1,2の例外を除けば、『大東亜戦争史観』であり、沖縄を「悲劇の島」化した歴史観がそのままだったのに、仰天させられた。沖縄戦の悲劇は「大東亜戦争」=侵略戦争の帰結であり、大日本帝国が「天皇制」を守り抜くために時間稼ぎを図り、「最後の一兵まで戦え!」と指揮官が自決したことに象徴されるような戦であり、天皇に命を捧げることのみが、許された時代の中で起きたのだった。
だから慰霊祭をどこでやるかは、広い狭いの物理的な問題ではないはずだ。考えてみれば、自分の両親とか祖父母が戦争で亡くなったとすれば、その人達を追悼する際に、この国が好む「殉難死」(「お国のために死んでくれて、ありがとう」)を良しとするのか、ちょっとまってよと、そういえば、どうして亡くなったのだろうかと考える場にするのか、この違いは大きいはずだ。
そして「殉難死」を追悼しても、その歴史をただふりかえるだけだ。国・天皇が死ねよと命じたことを受け入れたうえでの追悼って、おかしくないですか。このままでは、再び同じようなことが起きるかも知れない。「殉難死」したら靖国神社に祀られて神になっているのだから、俗世間のことは関係ないのだろうか? 人を勝手に死地においやりながら、「神」(「命」ーみこと)にすることこそがおかしいと、私は考える。
この機会に沖縄戦の歴史を改めて考えなおしたいものだ。そういえば、『命』(みことVS「命(ぬち)どぅ宝」。命(いのち)を測る言葉のこの違い。だまされたら、いかん!
天皇が「私の祖父を大元帥とする日本軍が」という文言をお言葉の中に入れる日は来るだろうか?
無責任の玉露もいらない、ということです。だからこそ、考える力を付けることが何よりも重要なのです。うかうかしていたら、「死んでこい」と言われかねない時代が目の前にきているのです。