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ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

むのたけじの思索を受けて、今、私たちが考えるべきこと-Ⅰ(20200310)

2020年03月10日 | 歴史から学ぶこと
◎久しぶりに長い文章を書いた。今回それを2つに分けてブログに転載する。

Ⅰ:はじめに
 むのたけじの「希望は絶望のど真ん中に」の冒頭に書かれている彼の総括(?)を読んで、私が考えるべきと考えたことを書き綴る。私が書きたいことは、既に亡くなってしまった彼に対する批判ではない。彼が「空洞」の中をもがいてきたことを少しでも明らかにすること、なによりも私(たち)の自己批判であり、できれば今後を生きる指針を見いだしたい。
 
①むのたけじと私
 むのたけじは1915年生まれ。1936年(21歳)、朝日新聞社入社。従軍記者にも任ぜられた。1945年8月15日退社(30歳)。郷里の秋田に帰り、週刊「たいまつ」を1948年から30年間(68歳)出し続ける。
 私は1951年生まれ。1962年~63年頃、周囲の自然が壊されていくことに恐怖感を覚える。また、自宅隣の養護施設の友人が学校で泥棒扱いされたことに怒りと大人社会への不信を抱く。前後するが1959年、皇太子(当時)アキヒトとミチコがその施設を訪問した。この直前、その施設前の草ボーボーだった区道が舗装されたのだった。何で? こうして「自然破壊」と「差別」を認識していくきっかけを得たようだ。
 私がむのたけじを知ったのは、1970年のベトナム反戦・反安保の闘いの渦中で。大学の先輩からこれを読めと言われたのが「1968年―歩き出すための素材」(むのたけじ・岡村昭彦共著-対談集 三省堂 1968年4月刊)だった。この本はベトナム反戦運動が燃え上がる中で書かれており、胎動し始めていた学生運動を厳しく批判する視点が含まれていた。
 私は60年代末の「高度成長の時代」の中で、自然環境を守る運動と、1970年ベトナム反戦・反安保の闘いの中から、政治に開眼していった。それから50年余り、今日まで山あり谷ありだったが、先に記した少年時代の体験から小さくない影響を受けたと思う、今日この頃だ。因みに、私の父(故人)は、むのよりひとつ年上の1914年生まれ。時代感覚に重なるものがあったのではないか。
 私のむのたけじの本との再会は、「戦争絶滅へ、人間復活へ」(岩波新書 2008年刊)を2011年2月に読んだことによってだ。また「希望は絶望のど真ん中に」(2011年8月刊)を同年8月に読んだ。何故こうなったのか、よく覚えていないが、2011年と言えば、自衛隊を派兵したイラク戦争から5年後であり、2010年の「防衛計画大綱」を読み、私が与那国島、石垣島、宮古島に通い始めた時代と重なる。再び「戦争に向かい始めた日本」を、私は強烈に意識し、沖縄・琉球諸島への思いを新たにし始めた時期だ。また、2011年3月11日に、茨城県から青森県にかけて襲った「東北大震災」と福島原発の爆発事故の衝撃は、台地に生きている者として、忘れえぬ凄まじい記憶となった。
 なお、私はむのたけじと直接会ったことはない。「1968年―歩き出すための素材」を70年6月に読み、PKO法が通過してしまった1992年11月に再読したが、2011年まで忘れていたのだった。

Ⅱ K君からの問いと私の視座
① K君からの問い
 昨年末、沖縄に思いを寄せてくれているK君から以下のような問いが私に寄せられた。「むのは『希望は絶望のど真ん中で』において、『戦後、私たち日本国民が国家の主権者として社会生活を立て直す決意なら、必ず2つのことをやらねばならなかった。戦争そのものと戦争にまつわる一切を自分たち自身で徹底して裁くこと、そこから新しい道しるべを打ち立てること、もうひとつは戦争で迷惑をかけた国々と人々に対して誠心誠意、謝罪すること』としているが、ヤマヒデさんはどう思いますか?」
 どう思うかと問われれば、私はその通りだと答える。しかしこれでは単純すぎて、答えにならぬ。その通りなのだが、同書の序章「歴史の歩みは省略を許さない」を読み、違和感を覚えた。彼の発想の欠落、私の違和感の正体を考えなければならない。その先を考えなければ、「私自身の反省」にならないだろう。

② むのの立論の何がおかしいのか?
 むのは、敗戦時に受けた日本国憲法の「第9条に輝きと支え」を感じたと言う。第1章天皇を消して、「第9条を真っ先に据えたら、真の新憲法になるのに」と思っていたが、80歳になって(1995年)、漸く自身の間違いに気づいたという。
 どういうことか? GHQが日本国憲法に秘めた裏技に気づかなかったという。憲法9条が近代国家の要件である軍事力を削いだことは、日本国家への「死刑宣告」にも等しかったはずだが、この意味をご自身は自覚していなかったと言っている。先に述べた裁きと謝罪をやらずにきたが、「絶望のど真ん中の、そのどん底にこそ、不滅の希望が輝いている。(中略)人類史を土台から組み替えるようなすさまじい平和運動を創造して戦争を絶滅させ始めたに違いない」と願望しているのだ。
 さらに、それから15年が経った時点でも、この自己反省を誰にも語らず、書かず、しゃべらなかったと言うのだ。「他人に見られるのが恥ずかしいからではありません。あくまでも自分の内面で自分の内部を耕しながら、これまでの悔いをこれからの力に変えて進まねばならぬ。他人に見せるためではなく、他人にたやすく見えるものであってもならぬ。そのように自分に言い聞かせながら時を刻んでいた」。
 私には理解できない言い草だ。してやられていたのであれば、自身の歩みを逐一問い直し、再検討しなければならなかったはずだ。それは一人でできるほど、生やさしいことではないだろう。自分の問題意識を他人に開いて熟議する関係性が必要だったのではないか。だからこそ、第1章「現在を刺す700万年の歩み」から始まり、終章まで、私には何が希望なのか理解しがたいままだった。『希望は絶望のど真ん中に』という以上、このエッセンスを具体的に明確に語っていただきたかった。人類史的、生物史的教訓化を無用だとは思わぬが、彼自身の主体的な総括が求められていたはずだ。

③改めて「戦争絶滅へ、人間復活へー93歳・ジャーナリストの発言」を読み直した
 私は、むのの歩みを「希望は絶望のど真ん中に」から追うことはできなかった。やむをえず、前著「戦争絶滅へ、人間復活へー93歳・ジャーナリストの発言」を読み返した。これをたどりながら、彼の思考の軌跡を考えたい。
 この本は、黒岩比佐子(ノンフィクション・ライター)さんが聞き手となって、むのの主張を再構成している。構成は1章:「ジャーナリストへの道」、2章:「従軍記者としての戦争体験」、3章:「敗戦前後」、4章:「憲法9条と日本人」、5章:「核兵器のない世界へ」、6章:「絶望の中に希望はある、補足:結び書き」。
 私が先ず注目したのは、2章の「兵士はケモノになる」ということ。それはそうだろう(私は「ケモノ以下」だと思うが、ここでは触れない)。だから戦場から反戦運動は起きない、本国でも起きないという。それもそうだろう。しかしこれを語っているのは2008年であり、戦後63年の歳月を刻んだ後だ。こう突き放すのではなく、彼自身の主体的な総括がなされるべきだ。
 ただ「すりかえる」と「すりぬける」は、本質を言い当てている。権力は事の本質を常に「すり替え」、民衆も「すりぬけ」てきたと。今の安倍政権を巡る状況に通じるものがあるだろう。
 3章の「敗戦前後」が彼の人生の分岐点。その時、彼はジャスト30歳だった。「ウソばかり書いていたのだから、ここできちんとけじめをつけるべき」だと朝日新聞社を退社。若気の至りだろうが、何の総括も出さないうちに辞めてしまったのだ。敗戦から「日本の独立」の1952年まで、彼はジャーナリストとして、朝日新聞社と、この国のありようを見届けるべきだったのではなかろうか。
 だがより本質的な問題は以下だ。敗戦直後に「本当の戦争はこうだった」と書ければ良かったのに、誰も書いた者がいなかったと嘆いている。これこそないものねだりだったのではないか。それができないほど、大日本帝国(絶対的天皇制)の権力は、戦後世論、ジャーナリズムをも空洞化させており、自治的、民主的なものは吸い取られ、大幅に蝕まれていたのだ。さらにGHQによる思想・言論統制が重なっていく。だからこそ、ジャーナリストが、時間をかけてでも侵略戦争による数々の加害を、過去に遡り、なぜこうなってしまったのかを暴き出し、被害を助長したことを総括すべきだった。彼らには、新たな市民の起ち上がりを育む責任があったはずだ。
 4章の「憲法9条と日本人」は、彼独特の表現だが、分かりやすい。9条は「人類の輝かしい平和への道しるべであり、同時に日本自身の軍国主義への死刑判決でもある。その両面をもつのが憲法9条」としており、その2面性を検証すべきだったのに、しなかったと。更に戦争の加害責任を問わずにきたとも記している。そして天皇制がGHQの占領統治に利用されたと。「あの8月15日の後、私たち日本人は、戦争をしたことについて、自ら反省しなければいけなかった。それさえしなかったために、敗戦時にケジメをつけるという、当然すべきこともやれなかった。絶対君主制の中で、天皇の名の下で戦争を仕掛けたという建前に対して、どう始末をつけるのか。それさえ、主導権はGHQにもっていかれて、そのまま残されてしまった」。肝心なことはここだ。繰り返すようだが、当時の人々は考える力を奪われていたのだ。
 また、敗戦後、庶民は食うのに精一杯だった。そこに朝鮮戦争の特需が高度成長への足がかりとなったのに、これにブレーキをかけ立ち止まらなかったことが、高度成長期に矛盾をおこしていった。こうした指摘は概ね正しいと、私も考える。次の文脈に「『主語がない』状態での高度成長」とあるが、私は、45年8月以前も、以降もズーと主語が奪われていたと考える。「天皇陛下の命令/忠誠」が「企業の高度成長の命令/忠誠」に変わっただけだった。
 だから憲法9条に飛びついても「戦後の私たちは、憲法9条を神棚に祀ったようにしてしまった。本当に9条を生かす為に、自分たちの日常生活ではどうすればいいか、ということを考えもせず、ただ憲法9条を拝んでいるのも同然だった」と彼は指摘している。全くその通りだ。しかしこう言っただけでは、何も新しいものを生みだせない。支配・侵略の仕組み=シンボルであった天皇制に切り込む歴史感覚と、日常生活という場から問題を立て直さなければならなかった。また、ここに「戦後日本」から切り離された沖縄の歴史と空間を繋いで考えれば、俄然リアリティが沸いたはずだ。1960年代から1970年代の反安保・沖縄返還協定粉砕闘争は、これに完全に失敗したのだ。これは私自身の同時代史と重なっており、私も痛恨の極みだ。
 同章のラストで社会主義も共産主義もダメだったと言っている。私も同感だ。彼は初期社会主義とユートピアを語っている。ただそれに留まらず、私たち人間を研究しないとダメだろう。人間のプラス・マイナスの両面を知り尽くし、余計な欲望を減らし、プラスを増やし、マイナスを減らす努力をしないかぎり、私たち人間は救いようのない存在だと私は思うのだ。これは反戦運動自身の大きな課題でもあるはずだ。
 第5章:「核兵器のない世界へ」は、核廃絶が緊急課題とし、米日関係のチェンジを唱えている。ここは達見。沖縄の辺野古の問題にも言及している。さらに天皇制の問題から戦争責任を考えるべしとも言っている。しかし、かっての日本の侵略戦争を問い返しつつ、核兵器問題を考えなければ、結局自分事になるまい。大日本帝国が侵略戦争に撃って出て、その結果、被爆した日本の過去を忘れてはならない。戦後、「非核3原則」を掲げながら、この国は核安保同盟であるぞと、明白な矛盾を頬被りしながら、うそぶいてきたのだ。
 高度成長は他力依存で進んできたが、これが崩壊し、人間関係はあからさまにボロボロになった。だからこそ、「個々の人間が自分自身に責任を持ち、何よりも自分に対する誇りをもつこと。それに裏付けられた組織というものは、これまでにつくられたことが殆どない。でも、そういうものが生まれて、反戦平和運動を推進する力になっていかなければいけない」。「ひとり一人が平和を大切に生きる、私が私を大切にする平和運動こそが重要だ」と、彼は言っている。正にその通りだろう。
 第6章は「絶望の中に希望はある」だが、この章は冴えない。女性中心の社会へと、知識層の活性化を求めているが、まとまりを欠いたままだ。インタビューの限界でもあるだろう。
(続く)


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