ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

むのたけじの思索を受けて、今、私たちが考えるべきことーⅡ(20200310)

2020年03月10日 | 歴史から学ぶこと
Ⅲ:それでは、何が問題なのか?
①個人としての語り(総括)が弱いのではないか?
 私は「たいまつ」時代の30年間を知らない(関連本を未読)からかもしれないが、むのたけじ個人の歩みの中からの総括が弱い気がする。1915年生まれの彼だから、1935年には20歳であり、36年に朝日新聞に入っているのだ。皇国青年だったかも含めて、真摯に振り返ることが重要だ。45年の退社も「ごめんなさい」にしかなっていないのではないか。負けました、何故負けたのか、敗戦を「終戦」と言わされたことへの格闘も明記すべきだ。
 ジャーナリストだと構えると本音が書きにくかったのかもしれないが、折角、フリージャーナリストになったのだから、もっともっと自分を出して欲しかった。
 
②植民地に対する捉え返しが弱いのではないか?
 彼は従軍記者として海外にも出ている。軍隊に同行した人達が、戦場体験を考えるためには、植民地・植民者としての加害性を考えなければならなかったはずだ。当時、それを報じる事はできなかったとしても、後日談として正面からの総括を出し、印象記以上のものをまとめてほしかった。
 私が特に問題だと考えるのは、一方で天皇制を残し、他方で「大東亜共栄圏」の植民地にした人々を「5族共和」と称し「帝国臣民」に位置づけてきたが、これらの人々を1952年4月28月(日本の独立)をもって、「外国人」だと切り捨てたのだ。同日付で沖縄も切り捨てられた。
 私がこの問題にこだわるのは、私の父を見てきたからだ。私の父は病弱だったそうで兵隊に獲られたのは敗戦末期、国内でのことだ。誰も殺さず殺されずに済んだ。私が知る限り、「戦後民主主義者」だったが、(中略)朝鮮人・中国人への抜きがたい差別を持ち続けていた。私は「民主主義」と差別は矛盾しないのだと痛感させられたものだ。だから私は、頭の中での「民主主義」と、刷り込まれ身体化されてしまった差別は、別物だと理解している。だからこそ、差別との闘いを積極的に取り組むべきと考えている。

③天皇制による加害と被害の両軸からの検討を
 むのたけじは、「希望は絶望のど真ん中に」の序章で「歴史の歩みは省略を許さない」と記しているが、戦前・戦中を充分に検証し総括しているとは思えない。1945年夏以降の時代の中で、彼はここをどう超えようとしたのだろうか。
 ここで私たちが振り返っておくべき事は、1945年から1947年の「降伏」-「改憲」の過程は絶対主義的天皇制から象徴天皇制への大転換であり、私たち日本人は、この転換に幻惑されてしまい、天皇の戦争責任を問えず、大日本帝国の侵略責任・戦争責任を問うことができなかったのだ。思えば、1945年当時の体制批判派は、獄中に捕らわれているか、海外に出ていたか、大半は屈服させられ転向していたことも忘れてはなるまい。多くの日本人の頭は戦争が終って、ほっとしただけで、何故こうなってしまったのかを問い直す変革―新しい世界観を生みだせなかったのだ。ジャーナリズムの中から、こうした声が、模索がもっともっと生まれてくるべきだったのだ。
 今、私が言えることは、天皇制による加害と被害の両軸から物事を捉え返すことだ。ヒロヒト天皇は、訪米後の1975年11月、戦争責任を問われて「そういう言葉の綾については、私はそういう文学方面は余り研究していないので、よくわかりませんから」と他人事だとうそぶき、「この原子爆弾が投下されたことに対しては気の毒であるが、やむおえないことと私は思っています」(何れも「天皇百話 下の巻」鶴見俊輔・中川六平編 ちくま文庫 1989年4月刊から引用)と開き直っていた。沖縄についても同様であり、沖縄を50年かそれ以上、米国に差し出すと述べたことも周知の事実だ。 
 こうして、象徴天皇制の下で、原因と結果が曖昧にされ、戦争責任を問わないことが、戦後75年の日本の「公理」のごとくコンクリートされてきてしまっている。『昭和』から『平成』(1988年~1990年)、『平成』から『令和』(2018年~2019年)へと、代替わりの度に強化されてきたのだ。

Ⅳ まとめにかえて
 むのたけじの思索を再検討しながら、M君の問いに答えてきたつもりだ。私は2013年夏に「日本はこのままいったら、先祖返りしていくぞ(対外戦争する独裁国家になる)」と警鐘をならしたが、あれから7年後の今、予言は的中しそうだ。『民主主義』は死にたいになり、安倍政権の下で独裁国家が現出している。
 私たちが主権者だという声を明確にあげていかなければ、このまま押し流されてしまうだろう。私にも何を如何すれば良いのか、まだ定かでないが、一定の指針を出しておきたい。

①加害と被害を歴史的に関連付けて問う
 私が天皇制の問題から加害と被害を歴史的に関連付けて問うことを学んだのは、1989年前後の天皇代替わりから1995年の「戦後50年」の中だった。『昭和』から『平成』へと舞台が回る中で、私たちは、反天皇・反侵略・反戦を掲げ、元号が変わろうとも加害と被害を同時に問い続け、この国の歴史に向き合おうとしてきた。まだまだ不十分だが、こうした潮流が大きくなることを願うとともに、私も微力ながら努力を重ねたい。

②空間の分断を超える
 例えば、琉球国は何故、沖縄になり、オキナワになったのか? 今はどうなのか? アイヌモシリは何故、北海道になったのか? 近代150年余りの推移の中で、空間的な分断や併合があった。これは植民地支配という形で併合されたり切り離されたり変化してきた。過去の植民地の独立を認めても理不尽な対応が様々に続いている。土地と人に留意しながら、私はあるべき関係を考えたい。支配者・強者による不条理を許さず、独立独歩の相互に開かれた関係を作りだしたい。
私は、今の日本で、アジアという世界を考えるためには、近代日本の侵略膨張主義の先駆けとなり、また、「戦後日本国家」の足がかりとして踏みつけた沖縄を考え直すことが不可欠だと考える。これは、one of them の問題ではない。

③市民の自立・自律について
 戦後の日本では、「国家・国民」と言われることが圧倒的に多い。75年前は「帝国(皇国)・臣民」だった。国家は民主化されたと言われてきたが、未だに国家ありきの「国民」に過ぎないのではないか。これを打破し、自律した市民として命を営むことが重要だ。「命を営む」ことは自分を愛する、自分たちを愛することなしには不可能だ。自死や引きこもりが多い現実を考えれば問題の根っこは、広く深いのではあるまいか。また、自治を育む市民をめざしたい。

④各自の表現と、ジャーナリズムについて
 市民が自立・自律していくためには、多様な表現をわたしたちひとり一人がもたなければならない。ひとり一人がこれを鍛えあげ、ちょっとやそっとでは同調しない、生きるために問い直す思考力と表現力を獲得したい。
 マスコミは死んだと言われて久しいが、それでも頑張っている人は居るし、マイナーメデイアで奮闘している人が居る。お互いに協力を惜しんではならないだろう。

⑤文化と政治について
 多くの人々にとって政治は縁遠いもののようだ。だが、政治はひとり一人が命を営むためにあるはずだ。文化は、自己表現活動に留まらず、地域コミュニティの創造活動でもあり、政治も文化も市民の自立・自律なしに発達させることはできないだろう。
 むのたけじが言うように「希望は絶望のど真ん中に」あるのかもしれないが、私にはわかりかねる。私は、諦めず前を見て、奈落の底を常に凝視しながら歩くしかないと考えている。

【補足】我ながら生煮えの文章になってしまった。今後、私なりの拘りから何点か検討する予定だ。暫しお待ち願いたい。

◎8000字に及ぶ長さになった。改めて考えるべき事が多い。腰を据えて取りくみたい。K君に感謝。自分ひとりでは、今更、読み直したりしなかっただろう。「先祖返り」が深まる時代だからこそ、私たちは過去から学ぶことが重要なのだ。


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