本日、2022年1月23日は、名護市長選、南城市長選の投開票日です。皆さん、投票に行きましょう。私もまだ行っていません。選挙戦が終わっているので、誰がどうのとか、何を基準に選ぶのかと、書きませんが、米国在住の友から、何を基準に選ぶのだろうかとの問いかけがありました。これは、きちんと考えておくべき事柄ですよね。私自身、今までどうだったのかを振り返りつつ、あとで考えてみたいです。
ただ私の印象に強く残っていることを一言だけ書いておきます。確か1968年だったと思いますが、私が東京都民だったときのできごとです。美濃部革新都政が誕生したのです。私はまだ未成年で、選挙権を持っていない時代でした。当時の私は、1967年から新浜を守る会という自然保護運動を始めており、江戸川河口(千葉県)の干潟・湿地を埋め立てから守り、野鳥を守ろうとする運動に全力を尽くしていました。
東京都では公害防止協定などを掲げた美濃部亮吉さんが勝ったのです。私も歓喜したことを覚えています。ところが、その新浜で野鳥のセンサス(生息数)調査をやっていた仲間で、一人だけ相手候補(開発バリバリの)を支持したというのです。驚かされました。やっていることと真逆じゃないかと。
今思えば、彼は思想的にそっちだったのか、会社ぐるみだったのか分かりませんが、野鳥は「趣味」だったんでしょうね。「大人って、そんなことができるんだ」と今でも忘れることができない記憶です。
今思えば、1967年、8年の沖縄は、「復帰」前。「復帰運動」が盛り上がり始めた時期です。当時の私は沖縄も、「復帰運動」も全然知りませんでした。当時の日本鳥類図鑑には、琉球諸島の野鳥は含まれていませんでいた。「領土・領海」などというおどろおどろしいモノを知ったのはいつだったんだろう。はっきり分かりませんが、1968年6月に北海道に修学旅行に行って、「北方領土」なるモノを見たときでしょうか。また、この時、阿寒湖などのアイヌ・コタンに行き、アイヌ民族の存在をおぼろげに知りました。
知らないことは罪だと思い始めたのは、この辺りから、ベトナム(戦争)報道に接してからだと思います。もっとも鳥類学者などの専門家は、自然のことばかりやっていて、社会に政治に目を塞いでいる人が圧倒的多数だった時代です。このことは今ではどこまでかわってきたのか不詳です。イエス・パースンの「学識経験者」が多すぎます。何でもお金。
当時から50年余時間が経ち、何が変わったのだろうかと思います。経済も科学技術も政治も変わり、人間関係が変わりました。地域社会は激変しました。しかし我が人間は変わっていない。お金に縛られ、お金につき動かされています。戦争の悲惨も忘れられてきた。環境問題もスルーされています。原発の恐ろしさも、メルトダウンが起こり、爆発したのに、忘れていく。核物質は万年まで残るものもあるというのに、科学技術で対処できるというオメデタさ。鈍感すぎます。
問題の本質・原点は、イデオロギーの左右ではなく、命の営みへの敏感さです。その上で、個人の可能性を開いていけるかです。アイデンティティの問題も関わってきます。
上記のような抽象的な表現を、フィールドワークは、抽象的な感慨・思考をもろに実感する方法です。わたしの歩きながら撮る方法は、野鳥観察から始まったことです。
選挙結果はともかく、「足下を固め、次の一歩を踏み出そう」。
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