今日は2020年9月2日。9月2日を何の日だか即答できる人は、どれだけいるのだろうか? 1945年9月2日は大日本帝国が連合国に降伏した日だ。因に有名な8月15日は、「終戦の詔書」を天皇がラジオで公表した日にすぎないのだ。
以下、降伏文書を紹介する。署名したのは、日本代表:重光葵(まもる)外相、梅津美次郎(よしじろう)参謀総長。連合国各国代表者
「下名(引用者註:「かめい」ー自分をへりくだって言う言葉)はここに合衆国、中華民国およびグレート・ブリテン国の政府の首班が1945年7月26日ポツダムにおいて発し、後にソビエト社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及び日本帝国大本営の命により、かつこれに代わり受諾する。右4国は、以下これを連合国と称す。
下名はここに、日本帝国大本営並びにいずれの位置にあるを問わず一切の日本国軍隊及び日本国の支配下にある一切の軍隊の、連合国に対する無条件降伏を布告す。(中略)
下名はここに、一切の官庁、陸軍および海軍の職員に対し、連合国最高司令官が本降伏実施のため適当なりと認めて自ら発し、またはその委任に基づき発せしむる一切の布告、命令、及び指示を遵守し、かつこれを施行することを命じ、並びに右職員が連合国最高司令官により、またはその委任に基づき、特に任務を解かれざる限り各自の地位に留まり、かつ引き続き、各自の非戦闘的任務を行うことを命ず。
下名はここに、ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること、並びに右宣言を実施するため連合国最高司令官またはその他特定の連合国代表が要求することあるべき一切の命令を発し、かつかかる一切の措置を執ることを、天皇、日本国政府およびその後継者のために約す。
(捕虜について略)
天皇および日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施するため適当と認める措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす。
1945年9月2日午前9時4分、日本国東京湾上に於いて署名す。
大日本帝国天皇陛下および日本国政府の命によりかつその名において 重光葵。
日本帝国大本営の命によりかつその名において 梅津美治郎
1945年9月2日午前9時8分、東京湾上に於いて合衆国、中華民国、連合王国およびソビエト社会主義共和国連邦のために、並びに日本国と戦争状態にある他の連合諸国家のために受諾す。
連合国最高司令官 ダグラス・マッカーサー
合衆国代表者 シー・ダブリュー・ニミッツ
(他各国代表者が署名)」
ということで無条件降伏と連合国最高司令官の下に天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれると約し、間接統治が始まる。因に既に米軍は沖縄を占領統治しており、沖縄に駐屯していた日本軍の降伏は1945年9月7日となる。軍事占領による政治は大変厳しかったのだ。
上記の通りポツダム宣言を再確認しなければならない。1945年7月17日から8月2日まで、米国トルーマン大統領、英国チャーチル首相、ソ連スターリン首相の3首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり協議。この対日共同宣言は、蒋介石の同意を得て米英中の3首脳の名で発せられ、ソ連は8月8日の対日参戦とともにこの宣言に加わった。
「1,われら合衆国大統領、中華民国政府主席およびグレートブリテン国総理大臣は、われらの数億の国民を代表し、協議の上、日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。
(2,3略ー軍事力で徹底的に叩き潰すぞ)
4,無分別なる打算により、日本帝国を滅亡の淵に陥れたるわがままなる軍国主義的助言者により、日本国が引き続き統御せられるべきか、または理性の経路を日本国が履むべきかを、日本国が決定すべき時期は、到来せり。
5,われらの条件は(以下の如し。他に代わる条件なし。遅延も認めない)
6、(略ー軍国主義を認めない)。
7,右のごとき新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等のここに指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし。
8,カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾らの決定する諸小島に局限せらるべし。
9,10,11略
12,前記諸目的が樹立せらるるにおいては、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収せらるべし。
13,吾らは、日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意に付適当かつ充分なる保障を提供せんことを、同政府に対して要求す。右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす。」
軍事的勝利者は実に手厳しい。一歩も譲らない断固たる立場を鮮明にしている。そして8の主権だが、日清戦争や日露戦争で領土と化した台湾・朝鮮・南サハリン、同じく植民地にしていた「満州国」(中国東北部)(以上カイロ宣言ー1943年11月27日署名、12月Ⅰ日発表ー参照)はもとより、沖縄や小笠原等を除外するものになっていた。
こうした前提が織り込み済みの降伏文書だったのだ。しかし天皇以下の政治指導部は、こうした降伏文書に天皇を巡る事柄=国体護持が抜けているために最後の最後まで受諾するか拒否するか迷いに迷ったのだ。天皇の「御聖断」とも言われているが、本土決戦に及ぶ軍事力は既に失なわれていると知って、ギブアップしたのだ。7月26日~8月14日に降伏を受け入れるまで、無為に過ごしたために(意見をまとめられず)、8月6日のヒロシマ、8月9日のナガサキ、9日のソ連参戦(8日に宣戦布告)を迎えてしまった。こうした結果が1945年9月2日の降伏文書だと言うことだ。
ところで、この事態を沖縄から見たらどうなるか。一例を出そう。疎開船対馬丸がトカラ列島の悪石島付近(屋久島と奄美大島の中間点)で米国潜水艦に撃沈されたのは、1944年8月22日だ。これで1500名余りの人々が亡くなっている。要するにこの時点で、大日本帝国の軍隊は、鹿児島南方の制海権、制空権を失っていたのだ。客観的に考えることができていれば、これ以前に、天皇ヒロヒト等は降伏すべきだったはずだ。その後の1945年2月14日、近衛文麿(公爵・元首相)は天皇に上奏文を示し、「敗戦は必至」だと国体護持のためにこそ、進言している。歴史に「もしも」はないが、この時にヒロヒトが決断できていれば、沖縄戦以下の事態は起きなかった。
いずれにしても、当時の大日本帝国憲法は天皇主権であり、これが絶対だった。自由にものごとを考える事を許さない態勢だったのだ。軍部が力を持ち、中国大陸にエスカレートしていったのも、名目は天皇のためであり、天皇が支持したから行えたことだ。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えてきたが、こうした史実をどう捉えているのだろう。かって、ポツダム宣言もあまり承知していないと答弁していたが、今は如何なのだろう。私たちは9月2日という節目の日にしっかりと考えていきたいものだ。